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『ドッジ弾子』第9話「戦慄の記憶!修羅のドッジ!」は、もち子のために悪魔になると言った人が、最後に手を止める回だった。決め手の直前に浮かぶのが、1年前にもち子が言った「みんなでいる方が楽しいもの」なのだ。しかも試合が終わると、弔い合戦の相手は生きていたと分かる。そのうえ後半では、フェアプレーを掲げた大会側がいい場面で自分から配信を切る。正反対の二つの判断が、同じ日に並んでいた。




「悪魔になる」と言った人が、傷つけない勝ち方を選ぶ
スージーが背負ったのは復讐だった
第9話は、前話でもち子がマグマへ落ちた直後から続いている。相手の煽りも容赦がない。「お前たちは甘い。甘いから失ったんだ」「かけがえのない仲間」と言われ、火のついたスージーが背負い込むのは、はっきりと復讐だった。「仲間の復讐を果たすために十字架を背負う覚悟だ」という実況が乗り、本人も「もち子のために俺は悪魔になる」と口にする。
技も相応に物騒で、「体の内圧と心拍を極限まで高め、最大筋力を発揮させる呼吸法」という前置きから爆裂ショットプットが飛ぶ。相手の側も「なかなかだったぜ」「だが俺たちは強いアメリカを背負っているんだ」と受けて譲らない。ここまでは、弔い合戦がそのまま殴り合いに向かう流れだ。
決め手の直前に浮かぶのは、もち子の言葉だった
ところが最後の一投の前に差し込まれるのが、回想のもち子だ。「怖い顔」「スージーちゃんは笑顔の方が可愛いわよ」と言われて「周りは敵だらけなのに笑ってられるか」と返した、あの日のやり取り。そして決定的に効くのが「だってみんなでいる方が楽しいもの」という一言だった。
悪魔になると宣言した人の頭に浮かんだのが、悪魔と正反対の言葉だったことになる。復讐のために思い出したはずの相手が、復讐をやめる理由になってしまう。作中でいちばんふわふわしている人物の言葉が、いちばん硬い場面で効くという配置が良かった。
「平和主義だったもち子に感謝しな」
結果、一撃は相手を観客席まで吹き飛ばしたが、そこに「でも傷つけねえ」という選択が乗る。勝負が決まったあとの台詞が「平和主義だったもち子に感謝しな」で、倒した相手に、倒した理由ではなく助けた理由を告げている。
受けた側の反応も律儀だ。「ヒットされた上に助けられるとはな」「俺たちの完全敗北だ」「全てキャプテンの俺の責任だ」と並べ、なお「生きて恥を晒すなら」と言いかけて止められる。この作品のギャグの濃さで見ていると忘れそうになるが、彼らは本気で命の重さの話をしている。だからこそ、傷つけないという判断が勝敗以上の意味を持ってしまう。
1年前の回想は、助けようとした側が助けられる話だった
転校初日に浮いていたのは、スージーのほうだった
副題の「戦慄の記憶」が指すもう一つの記憶が、約1年前の教室だ。「噂のアメリカからの転校生か」と囁かれ、本人が明るく朝の挨拶をしても、返ってくるのは「すげえ英語だった」「緊張した」という戸惑いだけ。「なんだよ、挨拶くらい気軽に返してくれよ」と言われてようやく、ぼそぼそとした「おはよう」が返る。
この時点で孤立していたのはスージーのほうで、しかも本人にその自覚があまり無い。強くて明るくて物怖じしない人が、それゆえに輪の外側へ置かれている。助ける側として登場した人物が、実は同じくらい浮いていたという前提が最初に敷かれる。
怒ってくれたのね、と返される
そのスージーが、嫌がらせを受けているもち子を見かねて「お前らいい加減にしろ」と割って入る。返ってくるのは「な、何よ転校生のくせに」「あんたもいじめられたいの?」で、割り込んだ側にも矛先が向く。
ところが助けられた当人が言うのは「スージー、あんまり怒っちゃだめよ」だった。スージーが「お前は少しは怒れ」「いつもヘラヘラしてるからそいつらに」と苛立つと、もち子はそこだけ拾って「私のために怒ってくれたのね」と返す。説教を好意として受け取られて、スージーは「お、おう」としか言えなくなる。この一往復で力関係がひっくり返っているのが上手い。
「だってみんなでいる方が楽しいもの」
決定打は昼食の場面だ。もち子は「お昼にしましょう」と誘い、そこにさっきまで嫌がらせをしていた側も入れてしまう。スージーが「ちょっと待てよ」「こいつらも一緒か?」と止めても、返事は「もちろんスージーちゃんも一緒よ」でまるで噛み合わない。
「ひどいことされてばっかで、なんで笑ってられんだ?」という問いへの答えが、「だってみんなでいる方が楽しいもの」だった。理屈でも我慢でもなく、単に楽しいほうを選んでいるだけだと言われて、スージーは「お前なんかすげえな」と折れる。助けに入った人が、そのまま感服させられて帰るのがこの回想の構造だ。
弔い合戦の相手は生きていて、しかも敵は知っていた
マグマはホログラムだった
試合が終わると、主催者側から種明かしが出る。「くれぐれも他言無用でお願いします」と前置きしたうえで、スーパードッジが危険だと誤解されては困る、と言い添えてからの一言が「デスマッチ演出のマグマはホログラムです」だった。落ちた先はエアクッションで、全員無事だという。
つまりスージーがこの試合で背負っていた十字架は、最初から存在していなかったことになる。ユーザーへ配られた公式のあらすじですら「今は亡きもち子への友情をボールに込め」と書いているくらいで、見ている側も同じ勘違いをしたまま最後まで走らされる作りになっている。しれっと種明かしする順番が、この作品の性格をよく表していた。
「アメリカの情報機関を舐めるなよ」
問題はその直後に返される「アメリカの情報機関を舐めるなよ」だ。演出だと知らされて驚いたのは球川側だけで、対戦相手のほうは最初からホログラムだと知っていたことになる。
彼らを悪役として単純に嫌いになれないのは、この情報の使い方が結局は口だけで終わっているからでもある。知っていた事実を勝つために使ったわけではなく、煽り文句に混ぜただけで、試合そのものは真正面から受けている。強いアメリカを背負っていると言い続けた割に、やり口は妙に不器用だった。
煽り文句が、知っていて言われたことになる
改めて振り返ると、「お前たちは甘い。甘いから失ったんだ」「かけがえのない仲間」という煽りは、失われていないと知っている側から投げられていたことになる。試合前半の重い空気が、後から丸ごと別の色に塗り替わる。
そう考えると、スージーが最後に傷つけない選択をしたのは、結果として一つも無駄がなかった。もし本当に殺す気で投げていたら、生きている仲間のために取り返しのつかないことをしていた。もち子の言葉を思い出したのは感傷ではなく、この試合でいちばん実利のある判断だったとも言える。
試合後の第一声が、1年前と同じ形をしている
「ひとまずみんなでお茶にしましょう」
全員の無事が分かり、勝った側も負けた側も肩の力が抜けたところで、「ひとまずみんなでお茶にしましょう」という誘いが出る。1年前の「お昼にしましょう」と、同じ形をした誘いだ。
回想では、さっきまで嫌がらせをしていた側を昼食に呼んだ。今回誘われるのは、たった今まで本気で潰しに来ていた相手だ。相手が変わっても、間に何があっても、出てくる誘い方が変わっていない。落ちた本人にとっては死んだと思われていた数分間だったはずなのに、戻ってきた第一声がお茶なのは、正直かなり強いと思う。
煽っていた側が、忠告する側に変わる
受け取った相手の反応もいい。「お前たちを少々見くびっていたようだ」「いろいろ煽って悪かったな」と頭を下げ、そのうえで「次の相手はブラックアーマーズだな」「気をつけろよ」と情報を置いていく。試合前まで一番口の悪かった連中が、決勝前の忠告役になる。
前話で彼らは、ブラックアーマーズへ仇討ちを誓う相手に「俺たちが先だ」と割り込んできた側だった。その順番がここで消化され、彼らは自分たちを倒した相手へ次の敵を託していく。負け方としてはかなり気持ちのいい部類で、この作品が相手チームを使い捨てにしないところが好きだ。
勝ち方が正しかったことの、いちばん短い証明
この一連は、スージーの選択に対する答え合わせにもなっている。傷つけずに倒したから相手が起き上がれて、起き上がれたから謝罪と忠告が出てきて、その忠告が次の試合に効く。手加減が優しさではなく、そのまま次の戦力になっている。
もち子の「みんなでいる方が楽しい」は、1年前は世間知らずの綺麗事に見えていたはずだ。それが1年かけて、勝ったあとに敵を一人も減らさないという実利にまで届いている。回想を差し込む位置が、感動のためではなく理屈のために選ばれているのが良かった。
フェアプレーで表舞台へ、と言われた砂は血を吸うために撒かれていた
地上に出た理由は、世界配信だった
決勝の会場は地下ではなく地上で、しかも見慣れない顔ぶれが並んでいる。「あれ誰?」という素朴な質問への答えが「この大会に資金提供してくれているスポンサーの皆さんです」で、「彼らのおかげでここからの試合は全世界に配信されます」と続く。
目的も明言される。健全さをアピールできれば、スーパードッジは再び世界ナンバーワンスポーツとして返り咲ける。運営側の挨拶も「危険すぎて地下に潜らざるを得なかったスーパードッジは、君たちのフェアプレーで再び表舞台へ戻してくれたまえ」という、模範的な言い回しだった。
砂の由来が、その場で説明される
ところがコートを見た選手の反応は「砂場だ」で、そこへ解説が入る。古代の闘技場には流れた血を吸収するために砂が撒かれていた、アリーナという言葉ももとは砂を指す。フェアプレーの話をした直後に、足元の砂の由来が血だと説明される。
しかもその説明を受けて出てくる台詞が「それじゃあ、たっぷりと血を吸ってもらおうか」だ。表向きの言葉と足元の事実が、同じ数十秒のあいだに並べて置かれている。この場面で、大会側が二枚看板を掲げていることが視聴者にだけ先にばれる。
素性は隠すべきだが、強さは売りになる
解説席の見立ても身も蓋もない。球川に勝ち目はない、相手は生死をかけた修羅のドッジを経てきたチームだ、と切り捨てたあとの一言が効いている。「健全さをアピールするならその素性は隠すべきですが、圧倒的な強さは魅力的なセールスポイントです」。
隠すべきだと分かっていて、それでも売り物になるから出している。建前と本音がぶつからずに同居しているのがこの大会の気味の悪さで、賭け金の話が出ていた前話までの流れとも綺麗につながる。健全さは目的ではなく、値段を上げるための商品説明の一つとして扱われている。
修羅のドッジは、勝つためではなく生き延びるための試合だった
回想で語られるのは、勝ち方ではなく生き残り方
副題のもう半分、修羅のドッジの中身もここで開く。回想で投げ渡されるボールに付く説明が「そのボールはお前たちの命綱だ」「生き延びろ」で、当人たちの述懐も「全ては生き残るため」「戦い続けなければ俺たちは生き残れない」だった。
勝利という言葉が一度も出てこないのがこの回想の特徴だ。締めも「よくぞ生き残った」であって、よくぞ勝ったではない。そのうえで「次のお前たちの戦場は裏スーパードッジ大会だ」と告げられる。彼らにとってこの大会は栄冠を争う場ではなく、次に指定された生存の場でしかない。
決勝の空気は、始まる前から傾いている
整列の場面では、連盟の審判長がわざわざ「厳正な判定をしますので、そのおつもりで」と念を押す。球川の側は「本格的だ」「さすが世界配信されてるだけあるね」と素直に感心しているが、観客席は「修羅のドッジを生き延びたブラックアーマーズに勝てるわけねえぜ」で埋まっている。
「みんな僕たちが負けると思ってるな」という自覚の声に、「周りに飲まれちゃだめよ」「私がムードを変えてみせるわ」と返るのが球川の良さだ。実力差ではなく空気のほうを先に相手にしている。ジャンプボールを取られ、序盤から押されても、この構えだけは崩れていない。
見なくても分かる、という守り方
相手側で目を引くのが、まったく当たらない選手だ。「完全に相手のショットを避けてるぞ」「まるで全身に目がついているみたいだ」と実況が驚き、本人の説明は相手を見なくてもタイミングと方向が分かる、というものだった。視覚に頼らない回避という一点だけで、球川側が何かに思い当たる顔をする。
この心当たりが何なのかは、この回では言葉にされないまま試合が進む。ここまでの球川には、見えないものを読むタイプの選手も、理屈で仕組みを組み立てるタイプの選手もいる。相手の異能をただの脅威で終わらせず、こちら側の誰かの引き出しにつなげてくるのがこの作品の型なので、続きが楽しみになる引きだった。
配信を切ってから、本番が始まる
「一般配信ストップ」
球川がようやく流れを掴みかけたところで、主催者が「そろそろですな」と合図を出す。読み上げられるのは試合の中断ではなく、クリーンな時間の終了と「一般配信ストップ」だった。世界に見せていた側の映像を、運営が自分で切る。
健全さをアピールするために地上へ出て、そのために世界配信を用意して、いい場面になったところでその配信を止める。表舞台へ戻すという建前が、たった一言で本人たちの手によって畳まれてしまう。切り替えが早すぎて、こちらが呆れるより先に納得させられてしまった。
クリーンな表と、血で血を洗う裏
狙いは主催者自身の口から説明される。クリーンな印象で世界の注目を集め、同時に地下では血で血を洗うゲームを演出する。そうすればスーパードッジは莫大な金を生む金の泉になるのだという。締めは「全てはスーパードッジ復活のため」「黄金時代を取り戻すことができるなら、我々は手段を選ばない」だ。
重要なのは、彼らが競技を憎んでいるわけではないことだと思う。復活させたい気持ちは本物で、そのために表と裏を同時に売っている。悪意ではなく熱意で組み立てられている分だけ質が悪いし、賭け金もオッズもスポンサーも、全部この一つの動機から素直に導き出せてしまう。
同じ日に、傷つけない選択と傷つけるための演出が並ぶ
まとめると、この回には方向が正反対の二つの判断が同じ日の中に並んでいる。ひとつは、悪魔になると言った人が最後に手を止め、倒した相手を助けたこと。もうひとつは、フェアプレーを掲げて世界へ配信していた側が、いい場面で自分から映像を切り、血で血を洗う演出へ切り替えたことだ。片方は勝ったあとに敵を一人も減らさず、もう片方は見せ方のためだけに人を減らそうとしている。
副題の「戦慄の記憶」も、二つ分ある。スージーがもち子と出会った1年前の記憶と、ブラックアーマーズが生き延びてきた修羅の記憶。前者は敵を減らさない理由になり、後者は戦い続けるしかない理由になった。同じ過去でも、思い出したときに手が止まるか、止まらなくなるかで正反対に働く。デンジャラスタイムと呼ばれる時間に入って、この二種類の記憶が正面からぶつかることになる。そこでもち子のやり方がどこまで通用するのかが、次の見どころだと思う。




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