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『ワールド イズ ダンシング』第11話の副題は「小望月」。満月の一晩手前の月の名だ。青年になった鬼夜叉は客の前で舞い続けながら、最後に良いを感じたのはいつだったかと自問する。犬王への頼みは、皆に良いと言ってもらえる芸人になりたいという形をしていて、そこで突き放される。自分が感じるものだった「良い」が、人から言ってもらうものに移っている回だ。




副題「小望月」は、満ちる一晩手前の月の名だ
第11話の副題は「小望月」。公式サイトの話数ページに「第十一番 小望月」とある。小望月は、陰暦で十四日の夜の月、つまり満月の前の晩の月を指す言葉だ。ほとんど丸いのに、まだ満ちていない。
十一の副題で、暦の言葉は初めてだ
並べると、初番「人はなぜ舞うのか」から「あんたには身体があるじゃないか」「君には君のよさがある」と台詞のような題が続き、第十番は「溢れた世界」だった。月の名前、それも暦の一晩を指す語が副題になるのは、十一回目で初めてだ。人の言葉ではなく、空のほうから題を取っている。
犬王の舞の背には、欠けたところのない月がある
犬王が舞う場面では、雲の海の上に大きな月がかかっていて、その丸さは下の反応の画像にも写っている。副題はその月ではなく、一晩手前の月の名を選んでいる。満ちている者と、あと一歩で満ちる者が、同じ回に並べて置かれている、と読める。
コンテと演出を、一人で持っている
公式サイトの話数ページによると、この回はコンテと演出がともに米森雄紀。エンドクレジットでも「絵コンテ・演出」として一つの欄に並んでいる。一人がコンテと演出の両方を受け持つのは、第五番の淵本宗平、第八番の高橋謙仁に続いて三回目で、米森雄紀の名が出るのは全十一話でこの回が初めてだ。
作画監督は三人に戻り、総作画監督の欄が無い
作画監督は、てのひら、西願宏子、佐々木啓悟の三人。第九番は八人、第十番は七人だったので、終盤で膨らんでいた作画監督の人数が、この回で一気に三人に戻っている。総作画監督の欄は立っておらず、第十番で総作画監督だった佐々木啓悟は、今回は作画監督の一人として名を連ねる。
犬王の舞には、振付の欄が別に立っている
エンドクレジットには「犬王の舞 振付」という欄があり、名前は森山開次。公式サイトのスタッフ欄にも振付として載っている舞踊家だ。一人の人物の舞のためだけに、振付の担当が名指しで立っている。それだけこの回は、犬王の舞に重心を置いている。
将軍の目は、もう次の花に向いている
日吉座の場面のあと、語りが1377年の2月と告げ、将軍のまわりの話に移る。その屋敷は、かつて義満の父の別荘として使われていた、と語られ、近頃火災が多いな、やはりつけ火ではないか、何にせよ不吉、という声が続く。
火事の知らせに、「ちょうどよい」と返す
警備の強化を言う声に、そんなことで根本的な解決にはならんだろう、と別の声がかぶさり、将軍は、ちょうどよい、と言う。あそこは内裏にも近い、人員も増えて手狭になってきただろう、と続く。不吉の知らせが、そのまま新しい御所を建てる口実に変わっている。
花の御所は、前の回の宣言の続きだ
計画の名は花の御所で、完成した際は祝いの席を設け、舞台を開かせる、派手にやるぞ、と言う。第10話の義満は、東西南北、花と黄金で満ちた世界を、この俺が用意してやろう、と言っていた。言葉で用意すると言った世界を、この回では屋敷として建て始めている。
祝いの舞台に呼ばれたのは、犬王だった
その舞台で舞う者として名指しされるのは、日吉座の座頭、犬王だ。公式のあらすじも、三条坊門御所へ来るように言伝を受け、義満の力を借り、人前で舞うことを決める、と書いている。孤独の中で舞ってきた者を、将軍が人前に引き出す回になっている。
「今この瞬間に咲くべき花」
将軍は犬王に、だが、まだ足りない、と言い、今この瞬間に咲くべき花を美しく見えるようにする、この国も、この庭と同じだ、と続ける。将軍の欲しい花は、いつまでも残る花ではなく、いまこの時に咲いていればいい花だ。この言い方は、あとで鬼夜叉が欲しがるものと正反対の向きをしている。
「足すべきと思うか」
舞台を任せるのは日吉座だけでよろしいのですか、と尋ねられると、将軍は、足すべきと思うか、と問い返す。第十番まで将軍の前で舞ってきた鬼夜叉の名は、この問いの中に出てこない。足りないものを埋めるのは犬王で、誰かを足す話は問いのままで終わる。
身近な者は舞で気づき、客は顔を褒める
場面は変わって、青年になった鬼夜叉のまわりの話になる。第10話の終わりで貴人から邸宅での舞に招かれていたが、公式のあらすじは今回を、不眠不休の中、客人の前で舞う日々を過ごしていた、と書く。
身近な者たちは、舞を見れば分かる
鬼夜叉の身近な者たちは、ずっと調子悪いんだよあいつ、舞を見りゃ一発でわかるよ、と話している。連日連夜本番ばかり、休むように言っても聞かなくてな、何を焦ってんだか、と続く。不調に気づいている人は、顔でも声でもなく、舞のほうを見て気づいている。
「あいつ今はあんな声なんですね」
その場で、あいつ今はあんな声なんですね、という一言も出る。しばらく会っていなかった人にとって、変わったのはまず声だった。公式サイトのキャスト欄でも、鬼夜叉は幼少期・少年期を花守ゆみり、青年期を島﨑信長が演じると分けて書かれている。
客は、髪と瞳を褒める
客の側からは、かの鬼夜叉様をこんな間近で見られるとは、なんと贅沢な、という声が上がり、舞のあとには、今宵も素晴らしい舞でしたぞ鬼夜叉殿、と迎えられる。続く褒め言葉は、絹のように艶やかな髪、我々を迷わすその瞳、と外見のことばかりだ。身近な者が舞を見て不調に気づく一方で、客は舞ではなく顔を見ている。
「さすが御所様お墨付きでしょう」
客が口にする評価は、さすが御所様お墨付きでしょう、というものだった。世間はまだ、将軍が認めた役者として鬼夜叉を見ている。先に見たとおり、当の将軍は祝いの舞台に誰かを足すべきかと問い返しているところで、評判と将軍の目のあいだに、もうずれができている。
日吉座は、分からなくても支える
対照的なのが冒頭の日吉座で、座の者たちは、犬王様の目指す花に心打たれ、と語り、我々には理解しきれぬが、それでよい、と言い切る。私たちにできることは、犬王様を支える根として、深く丈夫になるべく稽古を積むこと、と続く。分からなくても支える座と、分かっているのに止められない身近な者たちが、同じ回に置かれている。
「私は変わらぬぞ」と言う人に、「私は変わってしまった」と返す
客の相手をしている鬼夜叉のもとに、失礼するぞ、と一人の公家が入ってくる。第9話に続いて、鬼夜叉を藤若と呼ぶ人物だ。
二人にしてくれ、と言って人を払う
公家は、私と藤若の二人にしていただけるか、と言って場を空けさせ、さきほどの客について、藤若のいる場で息を吐きおって、存在そのものがはしたない、とまで言う。鬼夜叉は、悪い人ではありませんよ、ととりなす。客を追い払う人と、客をかばう人が、並んで座っている。
「私は変わらぬぞ」
公家は、私は変わらぬぞ、お前の望むものは全てを与え、お前の憎きものは全て消し去る、と言い、いつでも私のところへ来い、と続ける。ここで差し出されているのは、何があっても変わらない贔屓だ。自分のことを、藤若ファンなのじゃ、と言い表す言い回しまで出てくる。
「しかし私は変わってしまったではありませんか」
変わらないと言われた鬼夜叉が返すのは、しかし私は変わってしまったではありませんか、という一言だ。変わらない贔屓は、変わってしまった本人を慰める言葉にはなっていない。背丈が伸び、声が変わり、客の褒め方まで外見に寄っていく中で、変わらないと約束されること自体が、かえって本人との距離を示している。
名付けの歌が、ここで詠まれる
公家はこれに、松が枝の藤の若葉に千歳まで かかれとてこそ名付けそめしか、と歌で答える。松の枝にかかる藤の若葉のように、千年の先までかかっていてほしいと願って名づけた、という歌で、藤若という呼び名がこの人の命名だったことを、歌のほうが語っている。願いの中身は、千歳まで、つまり長く変わらずにいることだ。
「変貌する我が身に戸惑うは当然のこと」
そのうえで、称賛され、幼さを失い、変貌する我が身に戸惑うは当然のこと、と言い、ゆっくりと悩めばよいぞ、と締める。悩むのをやめろではなく、ゆっくり悩めと言うのは、この回でこの人だけだ。長く変わらずにいてほしいと名に込めた人が、変わっていくことは当然だと言っている。
変わらないものを欲しがる人が、同じ夕日は二つとないと覚えている
公家とのやりとりのあと、鬼夜叉が、またあなたに会いたいと思っていました、と語りかける場面がある。ここで鬼夜叉は、自分が何を欲しがっているのかを、この回でいちばんはっきり口にする。
変えたいと願った世界は、何も変わらなかった
鬼夜叉は、どれだけ舞い続けようと、変えたいと願った世界は何も変わらず、と言う。第8話で、この世界を変えたくて、と舞っていた少年の、時が流れたあとの答えだ。舞で世界を変えるつもりだった者が、世界が変わらないことを先に認めてしまっている。
「本当に良いものは消えず、変わらぬはずなのです」
続けて、しかし本当に良いものは消えず、変わらぬはずなのです、と言い、すべての人を救うような、そんな強さを持った変わらぬものを、と重ねる。世界が変わらないなら、自分の舞のほうを変わらないものにしたい、という向きに願いが折れ曲がっている。いつまでも枯れない花を欲しがる言葉も、この場面で出てくる。
返ってくるのは、孤独の話だった
この願いに返ってくるのは、わかるよ、という一言と、一人粛々と進むものだけが大輪を咲かせる、という言葉だ。その少し前には、芸は孤独の中で初めて磨かれる、という言葉もある。すべての人を救う花を欲しがる者に、一人で進む者だけが咲かせる、と返している。公式のあらすじは犬王を、孤独の中一人舞を極め続けてきた、と紹介している。
空が赤い夕方に、同じ夕日は二つとないと思い出す
そのあと鬼夜叉は赤く染まった空を見て、今日は空が一段と赤い、綺麗だ、と言う。そして、同じ夕日は二つとないと聞いたことがある、あの時私は深く感動し、心が踊った、でも今は、と続ける。言葉の上では綺麗だと言えているのに、心が動いたのは過去の話として語られている。
同じ言い回しを、第3話で口にしていたのはコガネだった
第3話で夕空を見ながら、雲の形は全部ちげえ、同じ夕日は二つとねえ、と言ったのはコガネだった。その日の夕暮れは、鬼夜叉がコガネに、今日まで世話になった、と告げた別れの場面でもある。この回の鬼夜叉は、聞いたことがある、とだけ言って、誰から聞いたのかを口にしない。そのコガネは、第10話のあと、もうそばにいない。
変わらないものを欲しがる人が、変わることの美しさを覚えている
同じ夕日は二つとない、というのは、毎日変わるから美しい、という話だ。いま鬼夜叉が欲しがっている変わらぬものとは、ちょうど逆の考え方を、本人がまだ覚えている。覚えているのに、心が踊らない。公式サイトの紹介文が、無常の世に生きる新しい舞、と書くその無常を、この場面の鬼夜叉は手放しかけている。
「良い」は、感じるものから言ってもらうものに変わっていた
この回の中心は、犬王の舞を見たあとの鬼夜叉の頼みにある。そこで口にされる「良い」の向きが、第1話からの鬼夜叉とはっきり変わっている。
今まで聞こえなかった声が聞こえる
舞台に立つ鬼夜叉には、見事な足運び、これからは猿楽の時代、という声と一緒に、私には凡才に思えるが、昔の輝きは失われたな、という声も届く。本人は、今まで気づかなかった声が聞こえる、口から知らない音が出る、と独白する。褒め言葉も悪口も、変わってしまった自分の声も、全部が一度に耳に入ってきている。
「最後に良いを感じたのはいつだったか」
そして、最後に良いを感じたのはいつだったか、と自問する。第1話の鬼夜叉は、白拍子の舞に出会って、生まれて初めて「よい」と感じた少年だった。舞を続けるうちに、自分の中の「良い」がどこかへ行ってしまっている。それでも舞うことだけはやめていない。
犬王の舞が、人前に出る
そこへ日吉座がやって来る。初めて見るな、山奥に住んでるって、という客のささやきのあとに、犬王の舞が台詞のないまま長く続く。台詞の入らない長い時間が、まるごと犬王の舞に充てられている。先に触れた振付の欄が立っているのは、この舞のためだ。
頼みの形が、「良いと言ってもらえる」になっている
舞のあと、鬼夜叉は、あなたのような花が欲しい、と頼む。あなたのような強い花があれば、私は皆に良いと言ってもらえる芸人になれる、教えてください、と続く。第1話で自分が感じるものだった「良い」が、ここでは人から言ってもらうものになっている。欲しいのは花そのものではなく、花を見た人の評価のほうだ。
「君なら分かってくれると思っていた」
返ってくるのは、君なら分かってくれると思っていた、残念だ、という言葉だった。反応の中には、犬王に教えを乞うも、この言葉を残し去っていった、と書く人もいる。分かってくれるはずの相手だと見込まれていたのは、鬼夜叉のほうだった。孤独の中で芸を磨いてきた人に、皆に良いと言ってもらうための花をねだった、という行き違いだ。
花を見出していたのは、犬王のほうだった
第10話で犬王は、君の息子に花を見た、まだまだ小さき花だが、君には咲かせられぬ花だ、と語っていた。反応の中にも、鬼夜叉の花に触発され芸を磨く犬王、と読む人がいる。犬王が見出した花は鬼夜叉の中にあったのに、鬼夜叉は犬王の花を欲しがっている。持っているものを、持っていないと思い込んで他人にねだる形になっている。
第1話の自分の言葉が、休めという声になって返ってくる
最後の数分で、鬼夜叉は運ばれ、目を覚まし、夢を見て、殴られる。この流れの中で、変わらない、という言葉がもう二度、別の意味で出てくる。
休んでは、忘れられてしまう
運ばれてきた鬼夜叉は、明日はゆっくり休め、と言われても、休んでは忘れられてしまいます、と拒む。むやみに舞ってもだめだろ、おい、話を聞け、と止められても、私には考え事などしている時間はないのです、私には舞いしか、と言う。休めない理由が、舞いたいからではなく、忘れられるのが怖いからになっている。
「舞いは好きか」
そこで、鬼夜叉、舞いは好きか、と問われる。言葉の答えは返らないまま、今は休め、という声で場面が閉じる。好きかどうかを聞かれて、すぐには答えが出てこない。第1話から舞う理由を探してきた人物にとって、いちばん手前の問いがいちばん答えにくくなっている。
夢の中の声は、第1話の自分の台詞を使う
眠りの中で、鬼夜叉は黄色い装束の人物の膝に頭をあずけている。聞こえてくるのは、疲れたであろう藤若よ、お主が舞っても舞わなくても人は死ぬ、世界は変わらぬ、お前はもう十分舞った、という声だ。第1話で鬼夜叉が、舞っても舞わなくても人は死ぬのだ、舞ったって世界は変わらぬではないか、と言っていた言葉が、ここでは休ませるための言葉として返ってくる。
「もう舞わなくていい」を、受け入れかける
下の反応の画像に写る字幕では、声は、もう舞わなくていい、と言い、鬼夜叉は、そうか、そうなのだ、私は十分、と応じかける。舞う理由を探し続けてきた少年が、舞わない理由を差し出されて、それを受け取りかけている。この声が鬼夜叉を藤若と呼んでいることも見逃せない。この回で鬼夜叉を藤若と呼んでいたのは、変わらぬ贔屓を約束した公家のほうだった。
十二五郎は、殴ってから「なんも変わってね~な」と言う
そこへ拳が飛んでくる。雨の中で頬を打たれた鬼夜叉を見下ろして、十二五郎が口にするのは、なんも変わってね~な、の一言だ。何が変わっていないのかは言わない。ただ、変わってしまったと悩む本人の前で出てくるのが、この言葉だった。第3話で、お前には何もねえんだよ、と殴りかかった相手が、同じように手を出してから言う言葉がこれになっている。
三つの「変わらない」
この回で、変わらない、という言葉は三度、別の意味で出てきた。公家の、私は変わらぬぞ、は何でも与える贔屓の約束で、夢の中の、世界は変わらぬ、は舞うのをやめてよい理由だった。最後の十二五郎の一言だけが、拳のあとに、変わってしまったと思い込んでいる本人の前で言われている。
小望月は、欠けていく月ではない
客席からは、昔の輝きは失われたな、という声も上がっていた。けれど副題に選ばれたのは、満ちたあとに欠けていく月ではなく、満ちる手前の小望月だ。この回の鬼夜叉は、盛りを過ぎた者ではなく、まだ満ちていない者として題をつけられている。十二五郎の一言が、その題の向きをいちばん乱暴な形で言い当てている。




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