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第8話のサブタイトルは第八番「橋の向こうへ」。前回「いや違う。卒都婆小町ではない」と言われたまま止まっていた舞の続きから始まるが、この回の芯は舞そのものではない。第7話で徳さんが叫んだ「敗者をどう救い上げる?」に、見向きもしなかった将軍が自分の口で答えてしまう回だった。




舞台の上の問答が、そのまま将軍への問いに変わる
深草少将と、果たせなかった通い
第8話は、前回「いや違う。卒都婆小町ではない」と言われたまま止まっていた舞の続きから始まる。語られるのは深草少将で、「かつて小野小町に思いを寄せた男の一人」「彼女にもてあそばれ」「通い詰めるも思いを果たせず、無念の死を遂げた」と紹介される。公式サイトのKEYWORDは卒都婆小町を「小野小町と深草少将の百夜通いの伝説を元に生み出された演目」と説明していて(※2)、本編の語りはその伝説をそのままなぞっている。
そのうえで舞台が持ち出すのが「女と男、若さと老い」「相反するあちらとこちら」「両眼を合わせ持つ人の姿」という並べ方だった。対になっているものを、一つの身体に同時に背負わせるという言い方をしている。老婆の中に若い小町がいて、そこに死んだ男が取り憑くという、もともとの演目の仕掛けを、言葉の側から説明し直しているとも言える。
「あちらとこちらを繋ぐ橋に」──サブタイトルの出どころ
続けて出てくるのが、「何故その顔で橋に見える」「あちらとこちらを繋ぐ橋に」という受け取りだった。公式のサブタイトルである第八番「橋の向こうへ」(※1)は、ここから来ている。舞台をこの世とあの世の渡しに見立てるというのは、卒都婆(墓塔)に腰掛けた老婆と僧の問答から始まるこの演目にとって、もっとも自然な拡張だった。
しかも受け取りはそこで止まらない。「あれは全ての我々だ」「老いも若きも、強きも弱きも、生者も死者も」と並べられ、そのうえで「人々の願いを将軍義満に込めたと」「俺が背負うものはこれほど大きいと、そう抜かすか」と続く。とどめが「だが否定したら、それこそ将軍は終わりだな」だった。
これがこの回の仕掛けだと思う。第二回の舞比べは、題目が「将軍義満」で、判定人も義満ひとりだった。鬼夜叉が提出した答案は、将軍を賛美する舞ではなく、老いも若きも生者も死者も含めた全員の願いを、義満一人に背負わせる舞だった。褒められた形になっているのに、受け取った瞬間に責任が発生する。そして否定すれば将軍でなくなる。断れない答案になっているのだ。
増次郎はなぜ、石を投げられてまで辞退したのか
どちらも無礼なら、舞台での無礼を恥じる
舞が終わって、先に口を開いたのは田楽新座の側だった。「この勝負、我々田楽新座の負けを認めます」。客席は荒れる。「いいから何かやれよ」「ふざけんな、芸人だろうが」「待ってんだぞこっちは」「逃げるってのか」と声が飛び、物まで飛んでいる。この日の舞台は「本来客を入れるつもりではなかったが、特別に解放しておきました」と説明されていて、つまり将軍の私的な判定の場に、わざわざ客が入れられていた。辞退はその全員の前で起きている。
増次郎の言い分はこうだ。「鬼夜叉殿の舞台を見て、我々新座は、とても並ぶところにはないと悟りました」「至らぬ舞台を見せねばならぬ無礼と、大樹様の言葉を聞かぬ無礼。どちらも大樹様への無礼ならば、私は舞台での無礼を恥じます」。「大樹」は将軍の別の呼び方で、この人は最後まで丁寧な言葉遣いを崩さない。
ここが増次郎という人の書き方でうまいところで、彼は「負けを認める」と言っているのに、その理由を無礼の比較で組み立てている。どちらを選んでも無礼になるのなら、どちらを恥じるかを自分で選ぶ。逃げているのではなく、選んでいる。
忘れられない死者の側に、増次郎も立っていた
公式のあらすじはこの回を「人々は忘れることのできない死者と対峙していた」と書いている(※1)。増次郎が辞退したのは、その「人々」に自分も入っていたからだろう。この回には増次郎の子どもの頃が差し込まれる。舞台に来た母に「やめてください母上、あんな大声で恥ずかしい」と言い、お守りを作ってきたと差し出されて「いらないです」と返してしまう。もう一つ、「何が凄いとかはよく分からないけど、増次郎いつも楽しそう」と言ってくれる声も持ち出される。増次郎の返事は「なんですかその感想は」だった。
座に戻ってからの増次郎は、仲間から責められる。「なぜあんな勝手なことをした」「俺たちがどんな思いで」「お前には田楽新座の誇りがない」。かばう声も出るのだが、そのかばい方さえ「ただやり方がバカだった」という言い方になっている。座の中でも、この人の選択はちゃんとは届いていない。
「敗者への慈悲も勝者の務めということか」
鬼夜叉が持ち出したのは、勝ち名乗りではなく借りの話
義満はここで鬼夜叉に振る。「鬼夜叉、芸人としてどう受ける」。勝者に判断を投げているわけで、ここで誇れば増次郎の自尊心を踏むこともできた。ところが鬼夜叉が口にしたのは、借りの話だった。「前回の舞比べ、増次郎殿は何の得もないのに、私に再戦の機会を与えてくれたのだ」「私は増次郎殿と、田楽新座の方々に借りがあります」「どうか大樹様のご慈悲を。私に借りを返す機会を与えください」。
義満の返事が「敗者への慈悲も勝者の務めということか」「よかろう。この舞比べの決着、三戦目に持ち越しとする」だった。増次郎の命も、田楽新座の立場も、この一言で繋がっている。
第7話の叫びに、届かなかった側から返事が来る
第7話で、釜の前の徳さんが叫んだのは「聞こえるか? 足利の孫!」「お前はどうだ? 世界を勝ち得た勝者として、敗者をどう救い上げる?」「敗者が、もう忘れ去られる! どんな世の中であってたまるかよ!」だった。そして義満は見向きもしなかった。翌日に鬼夜叉が老人の件を切り出したときの返事は「何の話だ?」で、悪意ではなくそもそも見えていなかった。
その義満が、第8話では自分から「敗者への慈悲」という言葉を使っている。届かなかった叫びが、一話またいで、鬼夜叉の口を経由して、受け取った側の語彙になって戻ってきた。しかも鬼夜叉は、この場で徳さんの名前を一度も出していない。訴えても届かない相手に、言葉だけを言わせたということになる。
義満の答えは「弱きは捨てろ」から動いた
平等に皆救われるなど無茶な願い
翌日、鬼夜叉は御所に呼び出される。義満はまず条件を緩める。「次の舞比べ、題目を随意とした。思いのままにやれ」「必要なものがあれば何でも言え」。そのうえで「お前が現時点でできる最高の舞台をもって、増次郎にとどめをさせ」と言う。鬼夜叉が「ま、待つのだ」と止めようとすると、そこから説教が始まる。
「いいか、お前が何と思おうが、お前は今勝者だ」「人は平等ではない」「平等に皆救われるなど無茶な願い」「極楽の外でそんな願いを抱くのは、ガキか菩薩」。ここまでは第7話の「弱きは捨て、強きに力を」と同じ線の上にある。
「そこを救い上げるのが芸能の力ではないか」
ところが続きが違う。「すべてを救おうにも、こぼれるものは出る。必ず」「だが芸能はどうだ?」「そこを救い上げるのが芸能の力ではないか」「勝て鬼夜叉。俺のためにも」。
第7話の義満は、弱さを捨てることでしか世界は大きくならないと言っていた。第8話の義満は、政治では必ずこぼれると認めたうえで、こぼれたぶんを拾うのは芸能だと言っている。捨てろが拾えに変わったわけではない。捨てるのは政治の仕事のままで、拾う担当を別に立てた、というのが正確なところだろう。それでも、この人が「こぼれる」と認めたこと自体が第7話からの変化で、しかも最後に「俺のためにも」と付け足すところがこの将軍らしい。
「誰も救われねえんだよ」──コガネと、石也の縁の切り方
徳さんのおかげかもしれぬな、への全否定
歓声のあと、鬼夜叉はコガネに声をかける。「見ててくれたのか」「徳さんのために私も何かできないかと」「うまく舞えたのなら、徳さんのおかげかもしれぬな」。返ってきたのは全否定だった。「なわけあるかよ」「あれは徳さんのための舞いなんかじゃない」「自分の舞いのために徳さんを利用しただけだ」「あんなことしたって徳さんは生き返るわけでもねえ」「腹が膨れるわけでもねえ」「誰も救われねえんだよ」。
鬼夜叉は「私はただ、徳さんを忘れたくなくて」「この世界を変えたくて」と返すが、「菩薩気取りかよ」で切られる。「じゃあどうすればよいのだ。私は何もしなければよかったのか」に対する答えが「そうだよ」「関わるべきじゃなかったんだ」で、最後は「容姿も才能もある」「増次郎に勝ち、さらに義満にまで気に入られて」「そっち側の君には分かりっこない」「暗闇の中にいる人間の気持ちなんて」だった。
ここで使われている「そっち側」は、第7話で義満が鬼夜叉に言った「だがお前もこちら側だろう」の裏返しになっている。同じ線が、上からと下からで二回引かれたことになる。しかも二人とも、鬼夜叉本人の意思とは関係なく引いている。
守るために縁を切る、という同じやり方
そのあと、鬼夜叉が石也に詰め寄る場面がある。「コガネ殿と何か話したのか」「何を言ったのだ」。石也の答えは「舞うべき人です」「舞い続けるべきなのです」、そして「昔とは違うんです」「あの場所にも二度と行かないでください」だった。鬼夜叉は「なぜそれをお前が決めるのだ」と怒る。
思い出してほしいのは、コガネが田楽新座を追われた理由だ。第6話では「先に縁を切ることで新座は座を守った」と説明されていた。守るために縁を切るというまったく同じやり方を、今度は石也が鬼夜叉のためにやっている。コガネの冷たさがどこまで本心なのかは、この回では分からないままだ。ただ、石也が動いていたことだけは本人の口から確定している。
変わらねば消える──田楽新座の側の第八番
誇りとは、先人の積み重ねにあぐらをかくことではない
田楽新座は次の演目を決めかねている。「前回の結果はたまたまだろ」「相手の調子が良かっただけだ」「下手に姿勢を崩す必要はない」という声に、増次郎が「それが姿勢を崩すって言ってんだ」と返す。彼が出したのは、座がほとんど人前でやっていない演目だった。「あれは猿楽に寄せてできたもんだろ」「俺らが猿真似してどうすんだ」「田楽新座の誇りはねえのか」と反発が出る。
増次郎の返しが、この回でいちばん強い。「お前らの言う誇りとは何だ」「誇りとは、先人が積み重ねたものの、その上にあぐらをかくことではない」「ましてや闇雲に振りかざすものでもない」。そして「俺たちだけの窮地ではない。田楽の窮地だ」と言って、猿楽は田楽や他の芸能のいいところを取り入れて変化し、今や田楽に迫る存在になったと続ける。結論は「俺たちも変わらねば消えるのだ」だった。
公式が掲げている世阿弥のことば
公式サイトのKEYWORDには「世阿弥のことば」という項目があって、いまのところ二つしか載っていない(※3)。ひとつは第6話で徳さんが捕らえられる場面に重なった「目を前に見て、心を後ろに置けとなり」(目前心後)。もうひとつが『風姿花伝』の「住する所なきを、まず花と知るべし」で、公式はこれを「同じ場所で留まるのではなく、常に変化し続けることが芸の本質である」と説明している。
増次郎が座に向かって言ったことは、言い方を変えればこれだ。留まるほうが危ないという考えを、猿楽ではなく田楽の側の人間が先に口にしている。しかもそれは、目の前で勝った少年が六百年後に残す側の言葉と重なる。ついでに書いておくと、公式のKEYWORDは「田楽新座の名役者として有名な増阿弥は『ワールド イズ ダンシング』の増次郎のモデルとなっています」とも明記している(※2)。この人を、主人公を引き立てるためだけの役では終わらせないということだろう。
制作の側から見た第八番
コンテ・演出はシリーズ初登板の一人体制
公式サイトはEPISODEページに各話のクレジットを出しているので、そこを並べてみると面白いことが分かる(※1)。第八番はコンテも演出も高橋謙仁さんで、この名前は初番から第七番までのクレジットに一度も出てこない。つまりシリーズ初登板の人が、舞比べの決着回を一人でコンテから演出まで担当している。コンテと演出を同じ人が押さえたのは、第五番以来だった。
モノローグを交互に切り替える、稽古の場面と座の議論を交互に見せる、最後に二人を橋の上で合流させる──というこの回の組み方は、全体を一人で設計しているからこそ揃っているとも読める。
第六番「結びつき」の作画陣が戻ってきた
もうひとつ、総作画監督の赤坂俊士さんは第六番「結びつき」以来二度目で、作画監督の川南佑華さん・宮崎輝さんも同じく第六番の布陣だ。そこに第四番「運ビの大きさは違えど」の山澤純玲さん・竹本早耶香さんが加わる。つまり第八番の作画陣は、「結びつき」の面々と、観阿弥の『翁』と鬼夜叉の『千歳』を描いた回の面々の合流になっている。鬼夜叉が「父の作った演目を舞った」「何か大きなものと繋がっていたような」と口にする回の布陣としては、できすぎているくらいだ。
ちなみに卒都婆小町を「鬼夜叉の父・観阿弥がつくった演目」と明記しているのも公式サイトで、しかもその項目は「しかし、本作で鬼夜叉が演じる卒都婆小町は少し違うようです」で結ばれている(※2)。公式の用語解説が、自分で自分の説明を裏切っている。この一行の中身が、第7話の引き「いや違う。卒都婆小町ではない」だったわけだ。
まとめ|橋の真ん中で、二人は同じ言葉を使っていた
交互に差し込まれるモノローグと、「不足」という語
終盤は、鬼夜叉と増次郎の独り言が交互に差し込まれる作りになっている。鬼夜叉の側は「溢れたものを救い上げるのが芸能。そうであってほしい」「皆が同じ場所に立ち、繋がることができる世界」「卒都婆小町はたまたまうまくいったに過ぎぬ」「今の私にはあらゆるものが不足している」。増次郎の側は「あの時僕が守ったのは、座の誇りではない」「不足したものを出さねばならないことを恥じた、自分の誇りだ」「座の誇りでさえも、客からしたら知らぬこと」「僕はここで何をしてたんだ」「大事なのは良い舞台を作ること」。
二人とも「不足」という同じ語を使っているのがこの終盤の肝で、片方は自分の不足を認め、片方は不足を恥じた過去を認めている。行き着く先は「勝ち負けではない別の道」で、「私は変わらねばならない」という同じ結論になる。重なる謡が「花の色も皆々異なれど、面白しと見る心は皆同じなり」「美しき万華はいつだって、咲き誇ろうと足掻くのだ」だったところで、鬼夜叉の「一緒にやらないか」が落ちてくる。義満が「とどめをさせ」と指定した相手に、共演を持ちかけたことになる。
割れた受け取りと、三戦目へ
もちろん、この回の受け取りは割れている。演出が過剰だ、舞台を作り上げる苦労を飛ばして結果だけを見せている、という見方もあった。ただ、この回に限って言えば、稽古で「これではダメだ。あの時の感覚には程遠い」と繰り返す場面も、田楽新座が演目を決めきれずに揉める場面も入ってはいる。どこを見れば「作ること」を見せたことになるのかは、人によって分かれるところだろう。
いずれにしても、第8話は「救い上げる」という一語が、三人の口から別々に出てくる回だった。コガネは「誰も救われねえ」と言い、義満は「救い上げるのが芸能の力」だと言い、鬼夜叉は「そうであってほしい」と思っている。この三つのうちどれが正しいかを、作品はまだ決めていない。三戦目は、その答え合わせの場になるはずだ。
出典
※1 TVアニメ「ワールド イズ ダンシング」公式サイト EPISODE(第八番「橋の向こうへ」のあらすじと各話クレジット)sh-anime.shochiku.co.jp
※2 同 KEYWORD(「演目」卒都婆小町、「キーワード」田楽新座・田楽・猿楽)sh-anime.shochiku.co.jp
※3 同 KEYWORD「世阿弥のことば」sh-anime.shochiku.co.jp




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