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第7話のサブタイトルは第七怪「在りし日の紙芝居」。三十木谷家にやってきた巫女・佐恵子をきっかけに、ダラさんは平尋神社へ足を運ぶ。そこで祀られていたのはねじれた石で、しかもどこか懐かしい。そして薫にせがまれていた昔話を、ダラさんはついに自作の紙芝居で語り出す回だった。




一晩で死んだのは、誰だったのか
「お前らが生んだのだ」と妹巫女は言った
第7話は、前回の続きから始まる。術を封じるために腕を、逃げられないように足を落とされ、姉にも両親にも切り捨てられた妹巫女が、自分を囲んでいる村人たちに向かって言う。「お前らが作ってしまった」「お前らが生んだのだ」。彼女はもう、自分が半時もすればヤマタギマダラに取り込まれると分かっている。そうなればこの村は再び「アレの怒りを買って食い尽くされよう」。その恐れがあるのに自分はなんと浅はかだったのか、と悔いてもいる。
そこから続く言葉が、この作品の呪いの理屈そのものだった。オロチの内側で抗うための力を、自分は別のもので補う。その別のものが何かというと、「悪意、殺意は呪い。私に向けられたその分だけ、皆様の命を分けていただきとうございます」。恨んだ相手から好きなだけ奪う、という話ではない。自分に向けられた悪意の総量が、そのまま取り立て額になる。つまり彼女を強く憎んだ者ほど、多く持っていかれる。そして語りが「おそらくこの時、オロチの半身と妹巫女が一体となったものが生まれたのだろう」と引き取り、前回の締めと同じ「決して近づいてはならない。見れば障り、触れば祟る。古よりその名をヤマタギマダラ」がもう一度置かれる。同じ言葉なのに、理屈を聞いたあとだと聞こえ方がまるで違った。
嵐の翌朝、十郎太が見た亡骸の山
場面が変わって、嵐の翌朝。死人のような体で西の集落に戻ってきた十郎太が見たのは、広場に集められた亡骸の山と、それを検分している数名の役人だった。十郎太自身は知る由もなかったが、と語りが説明を足す。一晩で命まで落とした者は、すべて妹巫女の殺害に関わった者。そして噂に乗せられ、東の集落へ強い憎悪を抱いていた者。「そうした者らの悪意、敵意、殺意が、その身に返った結果だった」。
生き残った者たちの噂も置かれる。あの嵐の夜、雨音すら引き裂いて響く悲鳴に飛び出した者が目にしたのは、家々を跨ぐ邪神の影だった、と。名前の由来がここでさらりと出てくる。ヤマタギの三文字は、家々を跨いでいく、あの姿から来ている。うまいと思ったのは、呪いの説明と、その結果を別々の場面に分けて置いたことだ。前の場面で妹巫女が言った「私に向けられたその分だけ」が、翌朝の亡骸の数として、何の説明もなく画面に並べられる。計算が合ってしまう気持ち悪さがあった。
三十木谷家に来た巫女と、平尋神社
客が来ているあいだ、ダラさんはぬいぐるみでいた
そこから一気に現代へ戻る。三十木谷家にやってきたのが、公式のあらすじにも名前が出ている佐恵子だ。「あら、佐恵子ちゃん」と迎える千夜に、「先日のライブイベントの、頼まれていた物販持ってきました」「今年も里帰りライブ楽しみですね」と渡していく。地元出身の歌い手のグッズを買ってきてもらった、というだけの用事で、直前まで見ていた過去編との落差がすごい。しかもこのあいだ、ダラさんはぬいぐるみの姿でその場にいる。千夜がそれを目にしても、まったく疑う様子がない。
ただ、ダラさんのほうは真顔で考え込んでいる。第5話でさんざん講義してくれた、家イコール結界という設定がここで効いてくる。「わしが人間の家に入った際には、屋内を一時的にわしの領域に上書きするのじゃが」。祭りのときに自分を受け入れた平尋神社。そして今、その自分の領域へ、受け入れられたかのように入ってきた、その神社の巫女。二つ並べたところでダラさんは腰を上げ、「少し神社に行ってくる」と言い出す。設定の説明が、そのまま次の行動の理由になっている運びが気持ちよかった。
「ここの祭神は、その実わしじゃろう」
日向と薫を連れて平尋神社へ。境内では、まず軽い場面が続く。「ここには何が祀られておるのじゃ?」と聞いたダラさんに、とんでもないでたらめが返ってきて、「もう少し手心を加えて嘘をつけ」とたしなめる。結局パンフレットが読み上げられ、「それぞれ山の平穏と豊穣、物作りと家屋を守る神様みたい」と判明する。物作りと家屋を守る神、というところで、寄進を募って祠や神社を建てて回った大工の青年を思い出さずにはいられなかった。
そして奉納神楽がオロチ退治をやっているのを見て、あれは要するにダラさんが最初にオロチを倒した話ではないのか、という話になる。ダラさんの返しが「さてな。盛られたり省略されたり、都合で変わっていくからな」。この一言が前置きになって、本題が来る。今、人の世に伝わっているヤマタギマダラは、オロチが双子の巫女を取り込んで生まれた祟り神。であるならば、ここの祭神はその後にヤマタギマダラを封じた神、という体になるはずだ。しかしその実、自分がオロチの封を守っていることを知る者が、話のほうを差し替えて自分を祀った。「ゆえに、わしはこの神域に拒絶されなかった」。祟り神として恐れられたはずの存在が、名前と由来を書き換えられたうえで、守り神の側に置かれていたという推理だった。神楽の女神と双子の巫女とダラさんを並べて「キャラかぶってるけど」と言われ、「そりゃまあ、全部わしじゃからな」と返すのも軽口の形をしているけれど、内容はかなり重い。
御神体は、ねじれた石だった
満月の夜、御神体を月光浴させる
お参りして帰ろうか、というところで、ダラさんが止まる。「ここまで来れば気にもなろうというもの。何が御神体とされておるのか」。そのまま本殿の奥へ入っていく。そこで行われていたのが、御神体を月の光に当てる儀礼だった。「今宵は満月」「古来より月の光は霊的な清めの力があるとされておる」と解説が入り、御神体を月光浴させるのかと驚く二人に、「月光浴させておる間に、掃除をするのじゃな」と身も蓋もない答えが返る。神事の合理的な部分が見えるところが、この作品らしくて好きだ。
そして肝心の御神体を見たダラさんの言葉が、今回の引っかかりになる。「これは、ねじれた石? とても自然にできたようには思えんが」。続けて、「なんじゃろう、懐かしい気がするの」。ここが上手い。祀られているのは自分かもしれない、と推理し終えた直後に、御神体そのものにも見覚えがある。推理で説明がついたと思った瞬間、説明のつかないものを一つ足してくる。このねじれた石が何なのかは、今回は最後まで明かされない。
かしわで一つで、ダラさんの術が保たなくなる
その最中、巫女がかしわでを一つ打つ。たったそれだけで本殿内の場そのものが清められ、「わしですら、姿を消す術が維持できぬほどに」とダラさんが慌てる。そこで出てくる見立てが、「あの梛と呼ばれる巫女、もしかして霊感がゼロなだけなんじゃ?」だった。梛というのは、この神社の巫女としての呼び名にあたる。霊感がないことと、力がないことは別だという整理で、第3話で祠の修繕も儀式も完璧だったのに何ひとつ見えていなかった、あの巫女の説明がここでようやくつく。
そのあとに置かれる語りが、今回のダラさんの一番大事な感情だと思う。真偽はともかく、もし本当に、自分は恐れられていただけではなかったというのなら。それは彼女にとって、素直に喜ばしいことのように思えた。封じるために祀られたのか、感謝されて祀られたのか。同じ社に同じように祀られていても、この二つはまるで違う。何百年も答え合わせができないまま来て、今になって後者かもしれないと気づいてしまうのが、じわじわ効いてきた。
ダラさん作・紙芝居「わしのあらまし」
画力が、明らかに上がっている
家に戻って、ようやくサブタイトルの紙芝居が始まる。第4話で薫が「昔の出来事を絵に描いて教えて」とせがみ、絵が苦手なダラさんが一念発起して勉強を始めた、あの回の回収だ。「待たせたの」「待ってましたよ」というやりとりからして、だいぶ前から約束が持ち越されていたことが分かる。
そして開いた絵が、以前とは比べものにならないくらい上達している。視聴者の反応でも、あれからずっと練習していたのだろう、という受け止めが複数上がっていた。この作品はダラさんが現代に馴染んでいく描写を毎回ひとつずつ積んでいるけれど、今回はそれが画力の向上という形で出てきた。何百年も土地に縛られてきた祟り神が、子どもに頼まれたからという理由だけで絵の練習を続けている。その絵で語られるのが自分の一番ひどい記憶だというのが、また効いている。
「合体召喚された感じじゃ」という雑な締め
紙芝居の中身は、こうだ。国が弱り世が乱れ始めた時代に、双子の姉妹巫女が大蛇の討伐に訪れた。荒ぶる山神ヤマタギマダラの首をはね、一度はそれぞれを封じたものの、残った呪いで病が広がり、その鎮めに奔走することになる。そんな時に、ヤマタギマダラの胴の封印が解けた。「胴の封印を管理していたのが、わしじゃったのも良くなかった」。病を含めすべての責は自分にあると煽動された村人の一部が、オロチを再び封じる戦いで消耗した自分の手足を切り落とした。しかも、オロチの封が壊されたのも、村人を煽動したのも、姉の策略だった。
聞いている側の反応が「マジで」「お姉ちゃんもうちのことハメるやろ」「たまにはな」と軽いのが、かえって効いてくる。そして締めが本当に雑になる。切れ散らかしているオロチに、切れ散らかした自分が、切り落とされた足を餌にして、「ヤマタギマダラが合体召喚された感じじゃ」。「突然の雑さ」という突っ込みが飛んで、「少々遅れたが、お前が知りたがったわしのあらましじゃ」で紙芝居は終わる。ここで確定したことが一つある。手足を落とされたのも、姉に惨殺されたのも、ダラさんが一人称で語っている。第5話と第6話で見せられたあの妹巫女が誰だったのか、本人の口からはっきり出た回でもあった。
第七怪「在りし日の紙芝居」まとめと考察
もう片方の腕と、「どっちの部屋に住む?」
紙芝居のあと、ダラさんが語った理由が明かされる。万が一にも、いまだに山に巨大なオロチの荒神が眠っていることが世に出れば、再び祟りをまき散らさないとも限らない。先日から時折感じる、ヤマタギマダラに似た気配が新たな脅威となったなら、いつの日か、自分と縁を結んでしまったこの子らの力を借りる時が来るかもしれない。「ならば、おのれの知る限りを伝えねばな」。サービスでも思い出話でもなく、備えだった。そして禁足地についても訂正が入る。あそこが封じているのは自分などではなく、「大妖怪ヤマタギマダラの生き首じゃ」。祠に入っている腕は片方だけで、もう片方はどこかと聞かれると、「知らん」「知らん間におらんかった」と返ってくる。何百年も何も起きていないなら誰かがうまくやったのだろう、で片づけているけれど、この作品でこういう置き方をされたものが、そのままでいた例がない。
一番刺さったのはそのあとだ。オロチをどうにかできたらダラさんは自由の身だね、という軽い話に対して、「確かに、もはやこの地に居座る必要はないが」と受けたあとに続くのが、「同時に、わしが存在する必要もなくなる」。役目のために存在している者にとって、解放と消滅が同じ意味になってしまうという返しだった。それに対する二人の答えが、自分の部屋を差し出し合ったうえでの「ダラさんはどっちの部屋に住む?」。存在する必要がなくなるという話を、どっちの部屋かで上書きしてくる。「選択肢それしかないんか」と返すダラさんが、この回で一番いい顔をしていたと思う。
三つの術と、「覚えていてくださいまし」
最後にもう一度、過去へ戻る。妹巫女がどうやって集落を守ろうとしたのか、彼女が亡くなった今、何をすべきなのか。残された記録から読み取ろうとする十郎太だが、素人の彼に分かったのは、西の村で起きた惨劇がまだ終わっていないという恐ろしい事実だけだった。そこへ、夢の中で声がかかる。オロチは傷ついて眠りについております。「その隙に、私は三つの術を残しました」。
三つの術の中身が、これまで積み上げてきたものを一気に回収していく。一つは、眠ったオロチが起き出すのを遅らせるもの。一つは、さまよう腕を捕らえて眩ますもの。つまり、あの祠だ。そして最後の一つが、祟りとなり果てた自分を報せる音を鳴らすもの。「山で鈴の音を聞いたなら、どうか、どうか、誰も彼もお逃げくださいまし」。第5話で千夜が先代から継いだ、鈴の音が聞こえたら何もかも捨てて帰りなさい、というあの言い伝え。出どころが、自分を殺した村を最後まで守ろうとした彼女自身だった。そのうえで置かれる最後の願いが、はしたないと、浅ましいとお思いでしょうが、「どうか、覚えていてくださいまし」。
そしてラストが効く。学校でクラスメイトの富田さんが、毎年この時期は坊さんが来て、家族総出で山へ行って夜通し何かをやると話す。ずっと昔から続いていて、今はもう誰を弔っているのかも分からない。それでも「とにかくすごく大切にしなさい」とだけ伝わっていて、自分の家の土地だから代々管理している、と。分からないことは当事者に聞くのが一番、ということでダラさんを連れて山へ行くと、そこにあったのは墓だった。正確には分からぬと前置きしつつ、ダラさんが「わしの墓かもしれぬな」。当時お世話になった人がお礼に立てたのかもしれない、という受けに、「何百年もの間参ってくれている富田には、感謝せねばならぬな」と返す。そして最後に置かれるのが、「いつもありがとうな」の一言だった。
つまり「覚えていてくださいまし」という願いは、通っていた。誰を弔っているのかは忘れられた。由来も意味も抜け落ちて、行事の形だけが残った。それでも何百年、毎年この時期に山へ登る人がいた。中身が空になっても形が続いたおかげで、本人が「恐れられていただけではなかった」と知ることができる。今回ダラさんは二度、自分が祀られていたことに触れている。一度目は神社の祭神として。これは、封を守っていることを知る者が話を書き換えた、という理屈で説明がつく。でも二度目の、山の墓には理屈がない。誰かがただ、覚えていただけだ。サブタイトルの在りし日という言葉も、二重になっていると思う。紙芝居が語るのは在りし日の出来事であると同時に、あの記憶は紙芝居くらいまで整えないと、本人にも語れないものだった。笑える形にして子どもに見せた話と、冒頭で無言のまま見せられた同じ出来事。その二つの温度差そのものが、第七怪「在りし日の紙芝居」という回だった。




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