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第7話の公式サブタイトルは「煉獄」。この言葉は、劇中でルーデルドルフの口から「帝国という国そのものが煉獄にある」という形でそのまま出てくる。副題が指しているのは作戦名でも人物でもなく、国そのものである。そしてこの回、本物の紅茶が出るのは前線のほうで、帝都に並ぶのは代用品だった。後方が勝利に執着しているより先に、物のほうが尽きかけている。




本物の紅茶が出るのは前線で、帝都に並ぶのは代用品のほう
この回は「約束の紅茶だ」という一言から始まる。前回、ソルディムの救援に自ら出てきたゼートゥーアが、片づいたらお茶に誘わせてくれと言っていた。その約束が果たされる場面である。ターニャが「イルドアの友人からですか」と当てると、「同盟国の友情に感謝だな」「今のところはだが」と返ってくる。東部の司令部には、同盟国から届いた本物の茶葉がある。
帝都の食堂で出されたのは、ハーブティーだった
ところが休暇で帝都へ戻ったターニャが、軍大学の同期であるウーガ中佐と食事をする場面で出てくるのは紅茶ではない。「最近流行りのハーブティーだ」「健康にはいいらしい」。ターニャの返しが正確で、「健康志向を否定はしませんが、文明人としてはカフェインを欲するところですね」と言う。流行っているのではなく、カフェインの入ったものがもう手に入らないのである。ウーガも隠さず、味で知られた食堂がこの有様だと嘆き、前線を支えるために後方は何もかもが代わりのもので回っている、と説明する。
つまりこの回、本物が出てくるのは最前線のほうで、首都に並んでいるのは代用品である。公式のあらすじは「後方がなお勝利に執着する実情に驚愕する」と書くのだが(※1)、実際に画面が先に見せているのは執着ではなく欠乏のほうだ。勝利に執着する余力が、もう物のほうに残っていない。
アンドロメダが止まった理由も、結局は物である
同じ場面で、ゼートゥーアは「アンドロメダが頓挫した」と告げる。止まった理由は南部諸都市を抜けなかったからではなく、途中の都市までは進めたが、そこから先で補給が破綻したという話である。連邦軍に防備を固められ、攻勢限界に達した。目標だった資源地帯には「とても届かんよ」。ターニャが物の手当てを問うと、鉄道部はよくやっていたが物そのものが足りない、兵士も糧食も砲弾もままならない、と返ってくる。
計画が止まった理由と、帝都に紅茶が無い理由は同じ一つである。作戦の失敗として語られているものの中身が、最初から最後まで物が足りないという一点でしかない。だからこの回、東部で聞いた話と帝都で見た景色がきれいにつながる。
第7話「煉獄」で起きたこと(要点だけ)
公式のあらすじは「ソルディムでターニャ達は持ちこたえた。ところが、肝心のアンドロメダ計画が頓挫。休暇を兼ねて帝都に戻ったターニャは、そこで、後方がなお勝利に執着する実情に驚愕することになる。」(※1)。公式がこのあらすじと先行カットを出したのは放送の五日前で、サブタイトルの「煉獄」もその時点で公開されている(※3)。本編で起きる順に並べるとこうなる。
- 東部。ゼートゥーアとの茶席で、アンドロメダ計画の頓挫が伝えられる。原因は補給の破綻と攻勢限界。
- ゼートゥーアが「帝国は勝利依存症なのだ」と診断し、本国の現状を自分の目で見てこいと送り出す。
- 帝都へ。レルゲン戦闘団の休暇にレルゲン本人がついてくる。
- レルゲンから三点の伝達。責任問題で荒れる中枢、悪化する西方の航空情勢、そして行き先を言わない首都空襲の話。
- ルーデルドルフとの会見。戦争のゴールを問うたターニャに、三度「その通り」が返る。
- ウーガ中佐との食事。ハーブティーと代用品。そしてウーガ自身の告白。
- 翌日、戦没者の式典。棺、静けさ、そして「帝国という国そのものが煉獄にある」。
- 最後に置かれた短い場面で、式典用の衣装をめぐるやりとり。「却下で」。
「その通り」が三回。ゴールが無いことを、閣下自身が三度認めている
この回の中心はルーデルドルフとの会見である。入口からして厳しく、悠長な議論を偏愛する悪癖はないと言い、「結論だ」「結論を先に言いたまえ」と急かす。それでもターニャが前置きを重ねると、「結論か退出か選べ」と切って捨てる。ここまでは、よくある上と下のやりとりに見える。
ターニャの質問は、勝ち方ではなく終わり方だった
許可を得たターニャが出した問いは、戦術の相談ではない。「現場からでは上層部の戦争指導が理解できません」と前置きして、「どのように戦争を終わらせるつもりでしょうか」と聞く。敵野戦軍の撃滅なのか、要衝の占領なのか。「目指すべきゴールは」「帝国が追求すべき国家目標は一体どこにあるのでしょう」。最前線の一中佐が、国家目標の所在を将官に直接ただしている。
返ってきた答えが「勝利だ」の一語で、言い直しても「勝利。それ以上でもそれ以下でもない」だった。言葉としては立派だが、中身は空である。どんな状態になったら終わりなのかが、どこにも入っていない。
三度「その通り」と言われて、会話が終わってしまう
ここからのやりとりが、この回でいちばん怖いところだ。「軍は勝利とだけ命じられているのですか」――「その通り」。「つまり最高統帥府は目指すべき実質的なゴールすら策定し得ないと」――「その通り」。「そんな馬鹿なことが」――「その通り」。三回とも肯定である。ごまかしも、取り繕いも、機密を理由にした拒否も無い。軍のいちばん上にいる人間が、ゴールが存在しないことを三度続けて認めただけで場が終わる。
しかもルーデルドルフは、やめるという選択肢を捨てた者たちがいなければこの戦争はとうに終わっていたと言い添え、「嘆けど祈れど変わらずだ」と締める。分かっていて止められないという位置に、作戦を指揮する側の人間が自分から座っている。
東部の「勝利依存症」と、帝都の「その通り」は同じ診断である
この会見の前に、ターニャは東部で同じ内容を別の言葉で聞いている。本国は現実を知らないのかと問うたときの、ゼートゥーアの答えが「帝国は勝利依存症なのだ」「悲しいほどにな」だった。依存症という言い方は、勝利が手段ではなくそれ自体が目的になっている状態を指す。帝都のルーデルドルフが三度「その通り」と認めたのは、まさにその状態のことである。
東部の参謀と帝都の将官が、打ち合わせもなく同じ診断を下している。しかも二人とも、それを止める側には回っていない。ルーデルドルフの説明では、最高統帥府の政治家たちも「所詮は国民感情を恐れる生身の人間」で、「連中もマグマのような世論に溶かされたくはないのだ」という。誰も望んでいないのに、誰も降りられない。
副題「煉獄」は、この回の台詞からそのまま取られている
ルーデルドルフはターニャを説教で帰さず、「明日15時中央駅前の広場に来い」と呼び出す。翌日その場所で行われていたのは戦没者の式典だった。ここで言われることが、この回の副題そのものになる。
棺には遺体が入っていない、と先に言われてしまう
式典を眺めながら、ルーデルドルフはまず「あの手の棺は遺体が入っていない」と言う。重そうに担ぐのは演技だとしても、と続き、「歪とはこのことか」。そのうえで、見るべきなのは棺ではなく人々の顔のほうだと促す。「ここにあるのは歪んだ日常」「非日常であるべきものが日常と化して久しい」「壊れた平穏」。
ここは前回のゼートゥーアの台詞と正面からつながっている。戦場でお茶に誘ったとき、ゼートゥーアは文化こそが日常と非日常の区切りだと言っていた。その区切りが、前線ではなく首都のほうで壊れている。だからルーデルドルフは「人間性をすり潰されるのは最前線だけと思っていないか」と念を押す。「狂気は後方まで染み込んでいる」。
静けさのほうが危ない、という読み方
ターニャは最初、人々が過度に感情的でないことを良い兆候として読む。まだ国家理性が残っている証拠だ、と。ここでルーデルドルフの返しが厳しい。「怒りというのは限度を超えると平坦になるものだ」「沸騰しきった人間ほど案外落ち着いて見える」。叫べているうちはまだいい。声が出なくなってからが本番だという読み方である。
そして「帝都はもはや爆発寸前の火薬庫のようだ」と言い、続けて「帝国という国そのものが煉獄にある」と言う。公式サブタイトルの「煉獄」は、ここから取られている(※1)。タイトルが作品の外から付けられた要約ではなく、劇中で人物が口にした一語をそのまま採っている、ということになる。
第1話から並べると、この回だけ副題の主語が違う
公式サイトのストーリー欄には各話の副題が並んでいる(※1)。第1話「サラマンダー戦闘団」は部隊名、第2話「奇妙な友情」は関係、第3話「善意の仲介人」は人物、第4話「鉄槌作戦」は作戦名。第5話「貧乏籤」はターニャたちが引かされた立場で、第6話「囮」は前回の三重の役回りを指していた。どれも戦っている当事者の側を指す言葉である。
ところが第7話「煉獄」だけは、部隊でも作戦でも人物でもなく帝国という国そのものを指している。副題の主語が、ここで初めて個人や部隊から国家へ移った。戦線の話をしていたシリーズが、戦線を離れた回で国の話に切り替わるのは筋が通っている。
同じ日に二人から、別々に「常識を取り戻せ」と言われている
この回のターニャは、帝都で二度ダメ出しを食らう。言っているのは別々の人物で、場所も時間も違うのに、指摘の中身がほとんど同じである。
ウーガの言い分は、感情には時間がかかるということだった
一人目がウーガ中佐である。食事の席で、悪くとらないでほしいと前置きしてから、「平たく言えば、人間としての当たり前をやってもらいたいのだ」と言う。理由も具体的で、ターニャは物事の利益に対して即決を求めすぎるし、それができない相手を否定しすぎる、という話である。そのうえで「感情というのは頑強だ」「こじれたそれを解きほぐすには、どうしようもなく時間がかかるものだ」と続ける。
ターニャは断固たる意志の欠如は機会損失だと返すのだが、ウーガはそこで引き下がらず、その精神が理解できないと言い切る。効率で押し切ろうとしたら、効率の話ではないと突き返された形になる。
ウーガの告白は、参謀将校をやめたいという話ではない
ここでウーガが自分のことを話し出すのが、この回でいちばん静かな山場だ。「私とていい歳をした大人だ」「参謀将校としての規律訓練も受けた」と前置きしてから、「にもかかわらず、今の私は幼な子のように泣き出したくてたまらない」と言う。そして「私は参謀将校という怪物であり続けることができん」、「きっと娘が生まれた時からだ」。
これは弱音ではなく、自分が壊れつつあることの報告である。広報勤務を勧めてもらったことに心から感謝している、とまで言う。ウーガは以前から、血を流しすぎて講和を割り切れないと漏らしていた人物だった。その線がここまで来たということになる。軍人である自分ですらこうなのだから、明日は貴官も見ることになるという繋ぎ方で、翌日の式典に話が渡っていく。
ルーデルドルフの言い方は、もっと直接的だった
二人目がルーデルドルフである。式典の場でターニャが、近代人である以上は自由意志に基づいて論理的な話し合いを進めれば、と言いかけたところで遮られる。「貴様アホか」「アホだな貴様」「もう少し頭を使え」「そして常識を取り戻せ」。ウーガが時間をかけて言ったことを、四行で言っている。
面白いのは、この直後にターニャが自分から折り合いをつけようとするところだ。「臆病者ですので」と名乗り、ルーデルドルフは驚いて、無事に戦後を迎えたら絵本にしてやろうと言い出す。タイトルは「臆病者の英雄でどうだ」。そのすぐあとに「プロパガンダとは信じさせるものだろうに」、「誰もが夢を見たがっている」「偉大な祖国の偉大な勝利を」という言葉が置かれる。絵本という冗談の体裁のまま、戦時プロパガンダの作り方の話になっている。
ターニャの結論は「おかしいのは私の方か」だった
帰り道でターニャは、ウーガの言葉とルーデルドルフの言葉を続けて思い出す。そのうえで出てくる独白が「いやおかしいのは私の方か」である。この作品のターニャは、合理を疑うことがほとんどない主人公だった。その主人公が、自分の側の異常を検討の対象にしたのは大きい。
ただし、そこで転向するわけでもない。広報での文化的な生活を望んでいたが、今の帝国に生きる以上その望みは叶うまい、と結論をつけ、最後は「よくもこんな世界に放り込んでくれたな」「クソったれの存在Xめ」と、いつもの矛先に戻る。自分の異常を認めた直後に、責任だけは外に置く。ここは変わっていない。
そして最後に置かれた短い場面で、式典用の衣装が用意される。ルーデルドルフから孫と出かけるような衣装をと頼まれた、ととっておきの服が出てきて、「出かける先は戦没者の式典と聞いていたが」と返し、最後は「却下で」で終わる。直前まで火薬庫と煉獄の話をしていた回を、この一行で閉じる度胸が良い。
公式の各話スタッフを並べると、この回の手配だけ突出している
公式サイトのストーリー欄は、各話に脚本・絵コンテ・演出・作画監督まで載せている(※1)。七話ぶんを並べてみると、この回の作り方がわりとはっきり見える。
脚本は第1話から第7話まで、全部同じ一人
まず脚本は七話すべて猪原健太である。シリーズ構成も同じ人が担当しているので(※2)、構成担当が全話の脚本を自分で書いていることになる。分担の話数が一つも無い。東部で聞いた「勝利依存症」と帝都で聞いた「その通り」が同じ診断としてきれいに重なるのは、そもそも同じ人が書いているからでもある。
絵コンテと演出を一人で持ったのは、第3話以来
絵コンテと演出の欄は毎回顔ぶれが変わる。第4話から第6話までは絵コンテと演出が別々の人だったが、第7話は絵コンテも演出も梅本駿平の単独名義である。連名を含めない単独での兼任は、第3話以来この回が二度目になる。戦闘がほとんど無く、会話と表情と間だけで持たせる回を一人の設計で通した、という形だ。
ちなみにシリーズの監督である山本貴之は第1話と第5話で絵コンテに入っている。総作画監督は第2話以降ずっと細越裕治で、キャラクターデザインも兼ねている(※2)。
配役の側から見ても、この回は語る人が偏っている。公式のキャスト表では、ターニャが悠木碧、ルーデルドルフが玄田哲章、ゼートゥーアが大塚芳忠、レルゲンが三木眞一郎である(※2)。第7話はこの四人がほぼ一対一の会話だけで進む回で、戦闘の指揮も号令も無い。重い台詞を全部、年長の三人が低い声で置いていく構成になっている。
作画監督の欄が、この回だけ九人ある
数えていて目を引いたのがここだ。各話の作画監督は第4話と第5話が二人、第3話が三人、第2話が四人、第6話が五人。それに対して第7話は九人で、スタジオカフカやアップクォークを含む五つの社名が並んでいる(※1)。直前の第6話の倍近い人数である。
戦闘作画で人手が要る回ではないので、人数が増えている理由は枚数ではなく場面の数と種類のほうだと考えられる。東部の司令部、帝都の駅、食堂、参謀本部、街路、広場の式典、そして最後の屋内と、背景も服装も違う場所が次々に出てくる回だった。軍装と喪服と私服が同じ回に並ぶ、というのも珍しい。
まとめと次回予想:名前の出なかった三つ目の首都
この回でいちばん引っかかったまま終わるのが、レルゲンの三点目である。帝都に戻る道中、レルゲンは伝達事項を三つ挙げた。一つ目が東部の大規模作戦の責任問題で中枢が荒れていること、二つ目が西方の航空情勢の悪化で南方大陸からの撤兵まで検討されていること。そして三つ目が「首都空襲をやってもらうことになるやもしれん」だった。
敵の首都を二つ挙げて、どちらも否定される
ここでターニャは、敵側の首都の名を挙げて確認する。返ってきたのは「いや違う」。もう一つの首都を挙げ直しても「違うのだ中佐」で、三つ目の名前はこの回では最後まで出ない。そのままレルゲンは話を変え、鉄槌作戦での勝利と講和交渉の話に移り、停戦案を政治家が認めさえすればよかったのだ、という愚痴で終わる。
つまりこの回は、爆発寸前の火薬庫だと言われた首都と、行き先を言われない首都空襲を、別々の場面で観客の前に置いたまま閉じている。どちらも回収されない。式典の棺に遺体が入っていないという話まで含めて、この回に置かれた不穏なものは全部そのまま残っている。
次回予想:世論のほうが先に動く
予想として書けるのはここまでだ。ルーデルドルフは、危ないのは怒っている世論ではなく静かになった世論のほうだと言った。そして帝都はすでに静かだった。軍が次の作戦で何をするかより先に、後方の側で何かが起きるという順番で組まれているように見える。
もう一つ、この回でターニャが手放しかけたものがある。広報勤務での文化的な生活という、第1期から一貫していた保身の目標である。それを今の帝国では叶うまいと自分で結論づけた。望みを下ろした主人公が次に何を目標に置くのかが、当面いちばん見たいところになる。副官のヴィーシャは車の手配を、ヴァイス少佐は休暇証明書とクーポンの配布を言いつけられるだけで、帝都で何を見たかは描かれていない。ここもまだ空いている。
出典
※1 テレビアニメ公式サイト ストーリー(第7話「煉獄」のサブタイトル・あらすじ・各話スタッフ)/youjo-senki.jp
※2 テレビアニメ公式サイト スタッフ&キャスト(スタッフ表・キャスト表)/youjo-senki.jp
※3 テレビアニメ公式サイト ニュース(第7話あらすじ&先行カットの公開告知)/youjo-senki.jp




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