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『ワールド イズ ダンシング』第10話の副題は「溢れた世界」。三戦目は立ち合いではなく共演になり、判定は引き分けだった。第9話で「よくわからない」と言っていた人にも、この舞台は届いている。ところが同じ回で、鬼夜叉のいちばん近くにいた三人が離れていく。「溢れた」は第8話で将軍が使った言葉で、こぼれたのは救い上げる側の足元だった。公式サイトの各話スタッフも並べている。




副題「溢れた世界」と、初番の座組が戻ってきた第十番
公式サイトに副題とあらすじが並んでいる
第10話の副題は「第十番 溢れた世界」。公式サイトのエピソード欄に、あらすじと各話スタッフが一緒に載っている。
あらすじは舞競三戦目。鬼夜叉は実力不足を心配されながら舞台に立つが、舞台の上でさらなる進化を見せ周囲を驚かせる、から始まる。そのあとに、そんな中、コガネは歪な面をつけ、観客席に忍び込んでいて、と続く。この回で起きることの半分が、あらすじの時点で書かれている。
「溢れた」を先に言ったのは将軍だった
副題の言葉には出どころがある。第8話で将軍が鬼夜叉に向かって使った言葉である。
すべてを救おうにも、こぼれるものは出る、必ず、と前置きしたうえで、だが芸能はどうだ、そこを救い上げるのが芸能の力ではないかと続けていた。第10話の副題は、その言葉のうちの「溢れた」ほうを受けている。救い上げる側に立った回に、こぼれた側の言葉が題として置かれている。
演出と総作画監督と制作進行が、第四番と同じ三人
公式サイトの各話スタッフを第十番まで並べると、顔ぶれの戻り方が見えてくる。第十番は演出が細間菜瑠、総作画監督が佐々木啓悟、制作進行が上地京子だった。
この三人が同時に並ぶのは、第四番と第十番の二回だけである。細間菜瑠が演出に入るのは初番と第四番と第十番の三回、佐々木啓悟が総作画監督に立つのは初番と第四番と第五番と第十番の四回。終盤に来て、初番の座組が戻っている。
絵コンテは、第二番の演出で第五番のコンテと演出
第十番の絵コンテは淵本宗平だった。この人は第二番で演出、第五番で絵コンテと演出の両方を担当している。
作画監督の人数も並べておく。初番が二人、第二番が一人、第四番が二人だったのに対して、第九番が八人、第十番が七人と、終盤の二話だけが突出している。落合良亮は初番、第二番、第五番、第七番、第九番、第十番と、十話のうち六話で作画監督に入っていた。
三戦目は、勝負ではなく共演だった
客席は勝負を見に来ていた
幕が上がる前の客席は、完全に勝ち負けの話をしている。どちらが勝っても面白い、と言い合い、判定への念押しまで飛ぶ。
それに対する返事が、明らかに劣ったものを判定で覆すことなどできんなだった。ところが幕が上がると、舞台の上に二人が同時にいる。勝負ではなかったのか、というざわめきが起きる。
共演の最中に「まだ硬い」と言われる
舞いながら声がかかる。鬼夜叉、お前はまだ硬いである。
続くのが、共演とはいえ、これは立ち合い勝負、だった。組んで舞っている相手が、組んだまま採点している。客席のほうは、名のある役者にすら滅多に見られぬ、この白桃のごときみずみずしさ、と沸いていた。
判定の前に問われたのは、勝ち負けではなかった
舞台が終わると、将軍が、判定の前に一つ問いたい、と切り出す。出てきた問いがこれは田楽か、猿楽かだった。
答えは、汐汲はもとは田楽の曲で、それを猿楽の技で改作したもの、という説明になる。そのうえで、しかし田楽の技なくして今日の舞台は完成し得ませんでした、と付け加えられる。勝ち負けを決める場なのに、どちらのものかという問いが先に来ている。
「まだ名のない技」として引き分けになる
裁定が続く。田楽の技か、猿楽の技か、まだ名のない技か、いずれにせよ、と並べたうえで、新しさの片鱗をここにいる人間に見せた、と言う。
そして、ここにいる我々だけが知っていてはもったいない、より深め、世に広めるよう、今後とも精進せよ、と続き、一連の舞比べ、両者引き分けとする、で決着する。勝者を決めない代わりに、広めろという宿題のほうが出された。
第9話で「よくわからない」と言った人に届いている
第9話の宿題は「誰にでも通ずるものにするには」だった
前の回に、この舞台の課題が言葉になっている。汐汲は労働の歌でしょ、私は働いたことがないから、よくわからなくって、と業子が言った。
それを受けた鬼夜叉の考えが、客にとって労働は身近なものだが、業子様のような貴人も中にはいる、誰にでも通ずるものにするにはどうすればいいか、だった。第9話はこの問いから動き出している。
返ってきた言葉が「これは恋の歌だったのね」
舞台のあと、その人がもう一度出てくる。開口一番がこれは恋の歌だったのねである。
労働の歌として渡されたものが、恋の歌として受け取られている。分からないと言った当人の口から、分かった、ではなく、別の読み方のほうが返ってきた形になる。
謝る相手が鬼夜叉ではない
続けて出るのが、以前は分からないなんて言ってしまってごめんなさい、だった。この謝罪は鬼夜叉にではなく、田楽新座のほうへ向けられている。
制作側の投稿にも、十話では舞比べ後の業子と田楽新座を描いた、と書かれている。汐汲はもともと田楽の曲で、猿楽に寄せた曲だと座の内側から反発が出ていたものである。その曲を貴人が受け取ったことが、座への謝罪という形で示された。
「良い物語でした」という受け取り方
締めの一言が、汐汲は良い物語でしただった。
第9話で増次郎は、俺たちの田楽は見るものではなく行うものだった、だが汐汲は物語の要素が強い、と説明している。物語でした、という感想は、その説明にそのまま重なる。行うものだった曲が、見て物語として受け取られている。
将軍の「勝ち負けだけにあらず」は、勝負の外へ出る宣言だった
幕府の側は、将軍を弱いままにしておきたい
舞台のあとに、政の場面が挟まる。大樹様を刺されておいて何もせず見過ごすということか、と一人が詰め寄るが、話は戦のほうへ進まない。
出てくる結論が、北も南も生きず死なず両立してある、このままでよいだった。続けて、力弱き若い将軍には弱きまま、末永くお座りいただくよう我々は尽力いたします、まで口に出る。仕える側が、将軍を弱いままにしておく方針を並べている。
学んだ、と言ったあとに来る「勘違いするなよ」
場面が変わって、将軍のほうから舞台の話が出る。俺は一つ学んだ、この世の価値は勝ち負けだけにあらず、である。
ここだけ聞くと、勝敗にこだわらなくなったように聞こえる。ところが直後に勘違いするなよが来る。勝ち負けなど、まるで俺が他の人間と同じ舞台に立っているようではないか、と続く。
「俺の隣に並び立つ者はない」
言い直しの中身は、勝敗を超えた、ではなく、勝敗の外にいる、だった。俺の隣に並び立つ者はないと言い切る。
強者だろうが弱者だろうが、敵だろうが味方だろうが、皆俺が用意した舞台に立ち舞い生きるのみ、と続く。学んだ、の中身は、自分は勝負をする側ではなく舞台を用意する側だ、という確認だった。
題名と同じ絵を、将軍が描いている
そのまま、勝敗など忘れるほど誰もが満ち足りる舞台を、東西南北、花と黄金で満ちた世界を、この俺が用意してやろう、と続く。締めが、俺は将軍だ、である。
世界そのものを舞台と呼び、そこにいる全員が舞っている、という絵になっている。この作品の題名と同じ絵である。直前の場面で、弱いままでいてほしいと語られていた相手が、いちばん大きな絵を描いていた。
溢れた側が、舞台のほうへ上がってくる
面をつけて客席に紛れていた
引き分けの余韻のなかで事が起きる。将軍が刺され、手当を、という声に、捨ておけ、大した傷ではない、と返る。
その面を外せという命令で、面をつけていたことが分かる。この回で面をつけていたのは、舞台に上がった者ではなく、客席にいた者のほうだった。
「南の者か」は、第6話でコガネ自身が説明した警戒だった
顔を見た将軍の第一声が、南の者か、である。そのあとに、このようなことをした理由を述べよ、が続く。
この警戒の仕組みは、第6話でコガネのほうが鬼夜叉に説明していた。河原には南北の動乱で住処を追われた人も多いから、南の者がそのまま居ついているかもしれないと幕府は警戒している、という話である。そのとき彼は、変な疑いをかけられたら、お前も舞えなくなるよ、と鬼夜叉を心配していた。
「北だろうが南だろうが、食えりゃ何でもいいんだ」も河原の言葉
理由を述べよ、と言われて返すのが、北だろうが南だろうが、食えりゃ何でもいいんだである。そのあとに、誰にも邪魔させるか、と続く。
この言い回しも第6話に出ている。河原で暮らす人たちが、北だろうが南だろうが食えれば何でもいいわ、と言い合っていた。その場所を、俺にとってここは自然だ、と呼んだ人が、同じ言葉を将軍の前で使っている。
処断を問われた将軍の返事は、一言だけ
このものどうしましょう、と処分を聞かれる場面がある。返ってきたのが、いいだろう、の一言だった。
何をどうしろとは言っていない。直前まで、誰もが満ち足りる舞台を用意してやろう、と言っていた口から出た言葉が、これである。用意すると言った舞台の広さと、この一言の短さが並んでいる。
第1話では、逆のことを言っていた
第1話で舞の意味を疑っていたのは鬼夜叉のほうだった。舞っても舞わなくても人は死ぬのだ、舞ったって世界は変わらぬではないか、と言っている。
それに答えていたのがコガネで、みんな世界に飽き飽きしてんだ、踊らねえとやってらんねえんだろだった。第10話では、舞台の上にいるのが鬼夜叉で、刃を持って舞台へ上がってくるのがコガネである。立っている場所が入れ替わっている。
いちばん近くにいた二人が、離れていく
「己の不足を恥と下がるか、己の不足と共に歩くか」
増次郎が自分の話を始める。僕は二度舞台を放棄したことがある、一度目は幼い頃、二度目は舞比べだ、から入る。
理由が、あのまま舞台に上がり己の不足を晒してしまえば田楽は終わると、そう思った、だった。そのうえで、だがお前は足りぬもお構いなしに舞台に上がる、己の不足を恥と感じぬのか、ずっと不思議だったよ、と続く。鬼夜叉が、悪口なのだ、と返すと、かもな、で受けたあとに己の不足を恥と下がるか、己の不足と共に歩くか、どっちが芸に誠実かが来る。第8話で二人が同じ「不足」という言葉を使っていたことが、ここで一つの問いにまとまった。
「僕たちは生き残らないといけないんだ」
そのうえで告げられるのが、一度、座頭様のもとへ戻ることにしたよ、である。
鬼夜叉が、ずっと一緒にやる気だったのか、と聞き返すと、僕たちは生き残らないといけないんだが返る。第8話の幕切れで、一緒にやらないか、と持ちかけて始まった組み合わせが、一度きりで終わっている。
石也がコガネに言った言葉は、自分に言いたかった言葉だった
第8話で、鬼夜叉に黙ってコガネと話していたのが石也だった。その中身がこの回で明かされる。私、言いました、コガネ殿に、若とコガネ殿は生きる世界が違うと、若の進む道に彼がいてはだめだと、である。
そのあとに置かれる一言が重い。私が私に言ってやりたいことだった。続けて、月を映す水のように私はずっと、コガネ殿を自分の分身のように思っていたのです、と言う。舞台に立てない者どうしとして見ていた、という告白になる。
「補ってもらうなど、まっぴらごめんだ」
引き止める側の言葉が、足のことなら気にするな、お前の欠けた部分は全部私が補う、役に立つかなどどうでもよい、だった。
返事が、補ってもらうなど、まっぴらごめんだである。その前に、私は本当はずっとあなたと舞台に立ちたかった、同じ速さ、同じ高さ、同じ世界を、と言っている。第1話では、自分は足が悪くて遠くへ出かけることもできないが、若の舞を見ているとどこまでも行ける気がする、と話していた人である。見ていられれば十分だ、ではなかった。
締めの語りは、第7話と対になっている
別れ際に残るのが、応援しております、だった。第9話では、私たちが作る汐汲、楽しみにしています、と言っていた人である。一緒に作る側から、送り出す側へ回っている。
幕切れは語りになる。川の水と同じく、時もまた止めどなく流れていく、人は皆、水面の笹舟のごとく、できることはただただ静かに身を任せることのみ、と入り、自然のことわりに身を任せ、自分の瞳の色を知らず、心の置き場所もわからぬまま、少年は、で切れて、青年となった、で結ぶ。第7話の語りは、自分の生まれ、体、心がいかに恵まれているか、そしてそれがいかに無力であるか、少年は何も分かってなどいなかった、だった。分からないまま、そのまま大きくなっている。




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