この記事の作品:
いよいよ新熊野水無月会の本番。鬼夜叉は初の大舞台で大役『千歳』を舞い、「この体で立っているのだ」と覚醒する。だが父・観阿弥の『翁』の存在感はそれ以上——鬼夜叉は深く心を揺さぶられる。公演後の謁見で対面した将軍足利義満は、思いもよらぬ人物だった。そして観阿弥は「己の形は作るもの」と我が子を突き放す。父と子の“運び”を見つめた第4話を振り返る。




本番前夜、眠れぬ鬼夜叉
「何もない」と言われて
翁を舞う役者は、その身に穢れを移さぬよう、火を別にして生活し、潔斎に身を置く。神聖な舞台を前に、大役『千歳』を任された鬼夜叉は、「寝なくては」と分かっていながら、不安で眠ることができずにいた。
胸に刺さっていたのは、「お前には何もない」と告げられた言葉。「私には父のような体躯も声もない」と思い悩む鬼夜叉は、皆がどんな形をしているのか、そして自分の形とは何かを知りたいと願うようになっていた。
初舞台の重圧と、自分には何もないという焦り。その揺れる胸の内から描き出すことで、この後の“覚醒”がいっそう際立つ導入になっている。
座の長老の、励まし
眠れぬ鬼夜叉に、座の長老が声をかける。「わしは座の連中のことなど考えたこともない。お前の親父のことも、何も分からん」——そう前置きしてから、長老は観阿弥の来歴を語る。
観阿弥は一人で旅に出て、芸と名のつくものを片っ端から習い、それまでの猿楽を壊しては作り上げ、また壊してきた。その積み重ねが観世座の歴史となった、と。「わしだって分からんまま舞台に立つ。大いに悩め。お前なら大丈夫。思いっきり舞えばいい」。
答えを与えるのではなく、「分からないまま立つ」ことを肯定してくれる長老の言葉が温かい。肩の力をそっと抜いてくれる、この作品らしい優しい励ましだった。
新熊野水無月会、鬼夜叉の千歳
「この体で、立っているのだ」
そして迎えた本番の朝、鬼夜叉の頭にひょいと亀が乗る。「朝から亀を見るとは縁起がいい、吉兆だ」——万年を生きる亀は、これから始まる長い舞の人生の、長寿と繁栄を予感させる。
舞台に立った鬼夜叉の胸に去来するのは、静かな覚悟。「私は鳥ではない。いくら足掻いても、この体は飛べない。舞は、はるか昔から脈々と続いてきた人間の生活・願い・身体・感情の流れ。その先端に、私はこの体で立っているのだ」。その言葉とともに、『千歳』が始まる。
飛べない身体を嘆くのではなく、地に足をつけて立つことを肯定する。鬼夜叉の内面のモノローグが、そのまま舞への祈りに転じていく構成が見事だった。
歴史が流れる、見違えの舞
「私の舞と体には、歴史が流れている。彼の知る歴史は浅けれど、いま私は若き千歳なり」——。鬼夜叉の舞は、それまでとは見違えるほどのものだった。袖から、そして舞台を踏む足から、水しぶきが立つような瑞々しい演出が、その覚醒を彩る。
かつて反発し合った十二五郎も、その舞に思わず見入ってしまう。身体に流れる歴史を感じながら、着実に一歩を刻む鬼夜叉の姿が、強く印象に残る。
扇の角度も、衣擦れの音も疎かにしない緻密な作画が、素人目にも“凄み”を伝えてくる。“何もない”と嘆いていた少年が、自分の体一つで舞台を掌握する瞬間に、胸が熱くなった。
観阿弥の翁、圧倒的な存在感
父の背中は、大きい
だが、鬼夜叉の千歳に続いて舞われた父・観阿弥の『翁』は、それ以上の風格だった。スピード、重心、大きさ、部分的な角度——そのすべてが別格。床の軋む音までもが芸になっている父の舞に、鬼夜叉は圧倒される。
「私は今、すごいものを見ているのではないか」。手を合わせて拝む老婆の姿にも表れるように、観客は皆その舞に釘付けとなる。改めて父の大きさを知り、鬼夜叉は深く心を揺さぶられるのだった。
天下太平を、祈る翁
『翁』は、天下太平を祈る神聖な曲。本来は年功を積んだ者が舞う大役を、この日は異例にも若き座頭・観阿弥が務めた。「近江から見に来た甲斐があった」「猿楽もいいものだな」——観客の感嘆が、会場を満たしていく。
鬼夜叉の瑞々しさと、観阿弥の重厚さ。二つの舞が並ぶことで、芸の道の“果ての見えなさ”が、静かに、しかし確かに突きつけられる一幕だった。
将軍・足利義満との、対面
思いもよらぬ、意外な人物
公演を終えた観世座一同に、将軍への謁見が許される。「鬼夜叉、俺の横に来い」——だが、鬼夜叉が初めて目にした将軍足利義満は、思いもよらぬ人物だった。実は義満は、以前お忍びの姿で鬼夜叉の前に現れていた、あの口が悪く、悪魔のように笑う若者だったのだ。
謁見の場で不敬な言葉を口にしかけた鬼夜叉を、義満はさりげなく庇う。「子供を切り刻む趣味などない。面白かったから、これで放免。だが発言は時と場所を考えろ」——飄々としながらも、どこか底の知れない若き権力者だった。
威厳ある為政者を想像していた鬼夜叉の予想を、軽やかに裏切る義満の登場。その掴みどころのなさが、この物語に新たな緊張と面白さをもたらしている。
人が自ら、一つになるもの
義満は鬼夜叉に、庭を見せながら己の望みを語る。この国には、大名の法、町の法、村の法……無数の法が、幕府の法と並列して存在している。先代から固めてきた地盤があってなお、国をまとめるには武や法だけでは足りない、と。
「俺が欲しいのは、人が自ら一つになるようなもの。猿楽が良いかどうかは今は分からん。だが俺は、お前を花の種として良いと思った。鬼夜叉、俺の側に来い」——芸能の力に、天下泰平の可能性を見出す義満の慧眼が光る。
一人の少年の才を、国を束ねる“種”として見抜く為政者の目。鬼夜叉の運命を大きく動かす、まさに分岐点となる出会いだった。
まとめ——己の形は、作っていくもの
模倣になるな、という教え
観世座への帰り道、観阿弥は鬼夜叉の舞を正しながら、静かに問いを重ねる。「なぜ膝を伸ばさぬ、なぜ踵を上げぬ……運び一つ、目線一つを、加え、省き、また加える。猿楽は、まだ未完成だ」。
将軍のもとではなく「父上のもとで、もっと猿楽を学びたい」と願う鬼夜叉に、観阿弥は告げる。「己の形は、探すものではない。作っていくものだ。お前の中にある」。そして——「俺とお前は、体も生きる時代も違う。この道に、神は二人いらぬ」と、我が子を突き放す。
父と子から、観阿弥と鬼夜叉へ
「俺は俺の体と時代の中で、行けるところまで行く。お前は、お前の体と時代を持って、どこへ向かう」。それは、父が子を後継者として導くのではなく、「観阿弥」と「鬼夜叉」という二人の芸術家として、未完成の猿楽を共に創っていくという宣言だった。
夜道を並んで「運び」を確かめ合う親子は、ようやく同じ芸の言葉で語り合えるようになる。父のもとに留まるか、義満のもとで新たな花を咲かせるか。その大きな分岐点に立った鬼夜叉の、これからの歩みから目が離せない。




関連作品:



















コメント