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観世座に舞い降りた、将軍上覧の水無月会。第3話は、その大役を前に「なぜ人は舞うのか」「自分の形とは何か」に迷い、精彩を欠く鬼夜叉を描く。恵まれた生まれに甘えて見える彼へ、孤児から芸に生きる十二五郎の怒りがついに爆発する。一方、稽古を抜け出した鬼夜叉は森の奥の田遊びで“まぐわい”を目にし、「舞」と「生」が結びつく。そしてその場で語りかけてきた男こそ、お忍びの若き将軍・足利義満だった。




団子屋の舞と、募る十二五郎の反発
サツキの「商売の形」と、御車の老人を魅了した舞
第3話は、鬼夜叉たちが町で団子を売る場面から始まる。団子屋のサツキは、もとは百姓の子で「役に立たなくて売られた」身の上だが、今は商売が性に合っていると笑う。「商売は好き。あたしの形に合ってる」。この何気ない一言が、第3話を貫く「形」というテーマの入口になっている。
客足が鈍いのを見かねたサツキは、鬼夜叉に「あんたの舞を見せてよ」と持ちかける。請われるまま舞い始める鬼夜叉。すると通りかかった御車から高貴そうな老人が身を乗り出し、その舞に大興奮するのだった。ネットでは、この老人こそ今回の大舞台を仕込んだのではないか、との声も上がっている。
真剣に稽古する鬼夜叉、石也の感激と十二五郎の「無理だ」
場面は変わって稽古場。かつては稽古嫌いだった鬼夜叉が、今は真剣に舞へ打ち込んでいる。その変わりようを見た一座の面々は「ずいぶん変わったな。強い目をするようになってきた」と目を細める。足の病で舞台には立てず謡を得意とする石也も、「そうなのです、そうなのです」と我がことのように感激し、「若は座を背負っていくお方」と誇らしげだ。
だが、そこに冷や水を浴びせるのが鼓を打つ少年・十二五郎である。「頭(観阿弥)のような良い芸人に? それは無理だろ」。あの鬼夜叉が名人になるなんて想像できない、と切って捨てる。才ある者への反発は、この時点ですでに火種としてくすぶっていた。
夕陽と雲、そして水無月会の配役
コガネとの別れ際、「同じ夕日は二つとない」
稽古のあと、鬼夜叉は舞を共に楽しむ少年コガネのもとで愚痴をこぼす。二人が眺める夕空を、コガネはこう説く。「雲があるから、いっそ赤くなるんだ」「雲の形は全部ちげえ。同じ夕日は二つとねえんだよ」。同じものは二つとない。のちの鬼夜叉の気づきにつながる言葉が、ここでもさりげなく置かれている。
ただ、この夕暮れはコガネとの別れの時でもあった。「今日まで世話になった」と告げる鬼夜叉。粗野ながら舞を愛したこの少年との時間も、静かに幕を下ろしていく。
新熊野での配役発表——観阿弥の「翁」、鬼夜叉の「千歳」
一行が向かうのは新熊野。夜、庭に一座が集められ、水無月会の配役が発表される。演目は天下太平を祈る神聖な「翁(おきな)」。そして本来なら長老が務めるその翁を、若き座頭・観阿弥みずからが舞うという異例の決定だった。将軍じきじきの意向だという。
さらに観阿弥は続ける。「この翁での千歳(せんざい)——これを鬼夜叉に任せる」。猿楽が初めて鬼神(将軍)の御前で奉仕する、観世座一世一代の大舞台。その大役が、実績のない鬼夜叉に託されたのだ。喜びよりも先に、計り知れない重圧が彼を包む。
型を見失う鬼夜叉、放浪の果ての田遊び
通し稽古の失敗と、犬王の「君には君の良さがある」
翌日の通し稽古。父・観阿弥の祝言の序に続く、自分の千歳の番が近づくにつれ、鬼夜叉の鼓動は激しくなっていく。「珍しく左馬助殿の鼓がうるさいのだ…違う、これは血の鼓動か」。足は震え、腕は硬い。「このままではダメなのだ」。彼は舞をまとめきれず、うなだれてしまう。
どうすれば認めてもらえるのか。迷いを抱えて外をさまよう鬼夜叉に、声がかかる。以前も出会った謎の青年・犬王だ。「君には君の良さがある。父と同じである必要はない」。そう告げてある方角を指し示すと、その後ろ姿は掻き消えるように見えなくなった。
森の奥の“まぐわい”——「舞」と「生」を結ぶもの
犬王が示した先へ。森の奥を抜けると、村人たちが奇妙な祭りに興じていた。田遊びである。男女が絡み合う“まぐわい”の所作に目を丸くする鬼夜叉へ、居合わせた男が説いて聞かせる。あれはただの真似事——種が芽吹き実がなるように、「無から有が生まれること」への人の祈りなのだ、と。
人が食べ、まぐわい、栄えることを寿ぐ祭り。舞の根源に触れた鬼夜叉は「いいものを見させてもらった。まぐわいとはいいものだな」と目を輝かせ、意気揚々と帰路につく。じつはこのとき語りかけてきた男こそ、従者から「義満様」と呼ばれ頭を下げられる、お忍びの若き将軍・足利義満その人だった。(稽古場で将軍と共に舞う、といった展開は本編には無い。ネットでも「そんなものはない」と念押しされていた通りだ。)
衝突の夜と、雨の中で見つけた「私の形」
十二五郎の爆発と、観阿弥の諭し
すっかり暗くなってから神社に戻った鬼夜叉を待っていたのは、かがり火を焚いた十二五郎だった。「お前にあんのは頭の血だけ」「頭みたいなタッパもねえ、響くような声もねえ、お前には何もねえんだよ」。「俺は頭と猿楽のために何を失っても構わない。お前は何だ」。大役をもらいながら稽古を抜け出した鬼夜叉へ、積もりに積もった嫉妬と怒りがついに噴き出す。
殴りかかる十二五郎、頭突きで返す鬼夜叉。取っ組み合いになった二人を、「その体で千歳を舞うんだ。自分勝手は困りますよ」と左馬助が引き剥がす。そして荒れた十二五郎を、観阿弥は叱りながらも優しく諭すのだった。「自分の醜さを知った奴は強くなる。まずは足元を見るこったな」。踏まれてなお咲くタンポポの生命力が、その言葉に静かに寄り添っていた。
雨の中の気づき——「変化こそ花にとっての水」
一方の鬼夜叉も、雨に打たれながら己の「形」へと辿り着く。鳥は跳ぶための形を持ち、生き物はそれぞれの場所で生き抜くために自分の形を得る。ならば自分も、自分だけの形を見つければいい——サツキの「商売の形」、コガネの「同じ夕日は二つとない」、そして田遊びで見た「生」。散らばっていた言葉が、ここで一本に繋がっていく。
物語は、風姿花伝の一節を重ねて第3話を締めくくる。「住する所なきをまず花と知るべし。変化こそ花にとっての水である」。一つの型に留まらないことこそが花なのだ。迷いを抜けた鬼夜叉が、水無月会の舞台でどんな千歳を見せてくれるのか。次回への期待が高まる神回だった。




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