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『転スラ』第92話の副題は「勇者クロノア・前編」。ユニークスキル時間旅行の発動条件は、ヒナタが死ぬことだった。そして時間を遡る話なのに、クロエの目的は未来を変えることではない。なるべく同じ歴史をなぞりたいの、と本人が言う。今回だけがいちばんうまくいっている一周なので、壊さないように再現しなければならないのだ。そのなぞるだけの旅の中で、この回に一つだけ新しいことが起きる。名前である。




なかったことにしようとした、と悔いる独白から始まる
副題は「勇者クロノア・前編」。時間を遡る話が始まるのだが、その入り口に置かれているのはヒナタの回想である。
映るのは、父の会社がうまくいっていた頃の光景だ。子供の頃はあんな父親でも遊んでくれていたのね、忘れていたわ、と本人が言う。思い出せていなかったのは、憎むのに邪魔になる記憶のほうである。
父を断罪した理由を、本人が言葉にする
続く独白が容赦ない。父さえまともならば母だって狂いはしなかった、そう思っていた、だから憎んで、恨み続けて、と並べたあとにこう来る。不幸な現実をなかったことにしようとして、そんな自分を正当化するために父を断罪した。
そして、もし家族で支えていれば結果は違ったものになっていたかもしれないのに、そんな私が正義を語るなど滑稽だわね、と自分を切る。前話でグランベルに、貴様は心に闇を抱えておるだろう、と言われた中身がここで開かれる。
この配置が効いている。不幸をなかったことにしようとした人の独白の直後に、本当になかったことにできる少女が現れるのだ。
目を覚ますと、二千年前に立っている
起きたヒナタに、クロエは順を追って説明する。まず、今ヒナタはクロエの中にいる。スキル無限牢獄の中で、あのまま寝ていたら消えるところだった、という物騒な前置きつきだ。
最終章の一歩手前という位置にあたる回で、ここから物語の骨組みが一気に開く。
説明の運び方も丁寧だ。まずは意識を強く持って、そして私と同調してほしいの、と頼み、光が見えるでしょ、と誘導してから本題に入る。自分の体じゃないみたいで不思議な感覚、と戸惑うヒナタに、みたいじゃなくて、と即座に訂正が入るのがこの子らしい。
ここに来たのは初めてじゃないもん
場所は将来ルベリオスの都ができる場所で、時は二千年前。なぜ断言できるのか、という当然の問いへの答えが軽い。だって私、ここに来たのは初めてじゃないもん。
ユニークスキル時間旅行は、発動すると過去に戻れる。宿ったのはリムルに精霊の住処へ連れて行ってもらったときで、そこで自分に宿ったのは未来から来た自分自身だった。未来で死ねば、その時点の自分に宿る。それを繰り返しているという構造だ。
発動の条件は、ヒナタの死だった
この回でいちばん重い一行が、さらりと置かれる。力が発動するきっかけは何なのか、と聞かれてのクロエの答えが、ヒナタが死んじゃった時に発動するのである。
毎回結末が決まっているのも辛い、という受け取り方が出ていた。実際そのとおりで、やっぱり私死んでるのね、という返事に対して、ヒナタは覚えてないけどいつも私と過去に来ているんだ、と続く。毎回死んで、毎回連れてこられて、毎回それを覚えていない。
思い出せるのは前回の記憶だけ
クロエの側にも限界がある。過去に飛ぶタイミングまではほとんど思い出せず、詳しく思い出せるのは前回の記憶だけ。それを聞いたヒナタの返しが良い。もし繰り返した記憶を全部覚えているのなら、それは地獄でしかないわ。
忘れられることを救いだと言っているわけだが、これは冒頭の独白と裏表になっている。忘れていたおかげで憎めた人と、忘れられるおかげで続けられる子が、同じ場所に立っている。
もう一つの限界も明かされる。この時代より昔には行ったことがなく、ここがスキルの限界かもしれない、という。遡れる下限がすでに見えているのは、後編に向けて効いてくるはずだ。
前回のループは、リムルが帰ってこないまま終わった
前回の周回の中身が、ここで一気に語られる。精霊の住処から戻ったあとリムルはすぐテンペストへ帰り、この時ヒナタとは出会わなかった。テンペストは救われ、周りの国に力を見せつける結果になる。
仮面、精霊憑依、そしてヴェルドラとルミナスにまつわる話が、ここで一本につながっていく。西方諸国評議会が討伐軍を出し、指揮を執ったのはヒナタで、あの時は怖かったよ、と本人の口から出る。そこから和解までは今と同じ流れをたどった。
崩れるのはその五年後だ。東の帝国の魔獣軍団が攻め込み、頼れるのはリムルしかいなくなる。行ってほしくなくてわがままを言ったクロエに、リムルは安心しろ、俺に任せとけと答え、そのまま帰ってこなかった。テンペストも滅び、ヴェルドラが復活して帝国軍を退けるが暴走し、止めようとする途中でヒナタが誰かに殺される。
今回だけが違う理由は、わがままを一つ言ったこと
では今回はなぜ違うのか。クロエの説明はこうだ。精霊の住処で少しだけ未来の記憶を思い出せていたので、イングラシアでリムルにわがままを言って、ちょっとだけ引き止めた。
これだけである。何周も繰り返してきた歴史を動かしたのは、大がかりな介入ではなく、子供が一度だけ言ったわがままだった。ヒナタが死ぬ時点までリムルが生きていたのは今回が初めてで、他にも初めてのことばかりだという。
自分が渡した仮面を、自分が受け取る
その引き止めたときにもらったものが、シズ先生の仮面である。ヒナタが、それはシズ先生の、と言い、クロエが、私がシズ先生にあげた仮面、と返す。
形見がどの時空でも想いをつないでいる、という読み方が出ていた。クロエからシズへ、シズからクロエへ、そしてリムルからクロエへ。渡した本人が、巡って戻ってきたものを受け取るという円がここで閉じる。
つまりクロエが勇者だったのね
ヒナタの結論は短い。つまりクロエが勇者だったのね。ここまで積み上がってきた仮面の勇者という存在の正体が、この一言で決まる。
同じ場面で、ヴェルドラを封印した勇者も自分だ、とも明かされる。作中でずっと過去形で語られてきた偉業が、これから本人がやることだったという順番の逆転が起きている。
この子は未来を変えに来ていない
ここがこの回でいちばん面白いところだ。時間を遡る話の定番は、悲劇を変えるために過去へ行く、である。ところがクロエの目的はその逆を向いている。
ルミナスに、その未来を変えたいと申すのじゃな、と問われての答えがはっきりしている。ううん。なるべく同じ歴史をなぞりたいの。理由は、今回はループの時点でリムルが生きていた、違う未来にはしたくないから。
いちばんうまくいっている一周を引き当ててしまったので、壊さないように再現しなければならない。何十回と繰り返してきた子が、初めて守りに入っている。
街の人は助けるが、城は壊れるままにする
この方針は行動にも表れる。ヴェルドラの襲撃を前に、ヒナタが釘を刺す。今大事なのは前回のルートと同じ、リムルが生きている未来へたどり着くこと。ここであなたが手を出したら未来が変わってしまうかもしれないのよ。
二人のやりとりは終始こういう距離感で、止める側と止められる側がきれいに噛み合っている。折り合いとして選ばれたのが、街の人たちを助けるくらいはいいよね、である。城は歴史どおり壊れ、人だけが助かる。
あとでルミナスが、そなたのおかげでみんなこうして生きておるのじゃ、と告げるのに、クロエは悲しんでいる。助けられた人数ではなく、守れなかったものを見ている顔だ。
何度も会っている相手に、初対面として会いに行く
同じ歴史をなぞる、という方針がいちばん笑える形で出るのが、ルミナスとの対面である。門番に止められた一言目がこれだ。
はい。ルミナスに会いに来ました。魔王を呼び捨てである。ヒナタが慌てて、この子、記憶として何度もルミナス様に出会っているみたいだから緊張感ってものがまるでないわね、と解説する。
助言を受けて言い直した口上が、私はあの邪竜ヴェルドラがこのナイトローズを襲撃するという情報を聞き馳せ参じたものです、である。ヒナタの、なんだ、やればできるじゃないが的確だった。
友達だから、が通用しない側の事情
道中でクロエは、平気よ、ルミナスは友達だから、と言っていた。ヒナタが、ルミナス様にとってはまだ何も知らない人間なんだから、と返す。片方にとっては何度目かの再会で、もう片方にとっては初対面という食い違いが、この回のあちこちに顔を出す。
面白いのは、それでもルミナスが話を聞くことだ。理由も自分で言う。わらわの名を呼び捨てにし、あまつさえ邪竜に勝てぬとぬかしおった、この美しいナイトローズも滅びるなどと、半月後が楽しみじゃ。無礼をそのまま面白がるところが、後の付き合いの長さを納得させる。
名前を捨ててきた子が、初めて名乗る
なぞるだけの旅の中で、この回に一つだけ新しいことが起きる。名前である。
クロエという名が知れ渡るのはまずい、という理由もはっきりしている。お兄ちゃんがこっちの世界に来たら絶対に勘付くと思うもん。兄というのが魔王レオンだと分かって、ヒナタが、いやもう何も驚かないわ、と受け流すのがおかしい。
これまでどうしていたのか、と聞かれての答えが、ほとんどの場合名乗らずに立ち去っていた。未来で勇者の名前が伝わっていなかったのは、そういうことだったと、設定の穴に見えていた部分がここで埋まる。
そこでヒナタが名前を考える。クロノア、なんてどうかしら。由来はユニークスキル時間旅行と、時の神クロノスを掛け合わせたもの。
受け取ったほうも即決だった。今日から勇者クロノアを名乗るわ。ルミナスも、クロノアか、良い名じゃな、と認める。名乗ることを避け続けてきた子が、初めて自分の名を持つ場面である。
前話でこの名を口にしていたのは誰だったか
ここで前話を思い出したい。グランベルはクロエを指して、それは勇者であって勇者ではない、今のあやつはクロノアと名付けられた破壊の化身のようなもの、と言っていた。
名付けられた、という言い方の中身が、二千年前のこの場面だったわけである。付けたのはヒナタで、意味は時間を渡る者だった。破壊の化身という呼び方が、どれだけ的を外していたかが分かる。
お主の因果が誰に巡るのか
別れ際のルミナスの言葉が、この回の締めになっている。いつか、ここに、ナイトローズにも負けぬ都を築いてみせよう、という約束はルベリオスのことだ。そして、お主の因果が誰に巡るのか、それも興味深いというものよと送り出す。
原作でいえば十一巻の終盤にあたる。ここまでずっと背景として置かれていた二千年が、一気に前景に出てきた形になる。
残っている問いは二つだけ
クロエ自身が挙げた目的も、はっきりしている。今回こそは絶対みんなで生き残ること。そして、誰がリムルやヒナタを未来で殺すのかを突き止めること。
面白すぎてツイートしている場合ではない、という声も出ていた。仕掛けの説明にほぼ一話を使いながら、退屈な回になっていないのは、説明の一つひとつが既に見た場面の裏側だからだろう。
後編で確かめたいのは、なぞる方針をどこまで貫けるのか、である。同じ歴史をなぞりたいと言っている子が、二千年のあいだ一度も名乗らなかった名を、今回だけ名乗ってしまった。もう一つだけ、違うことが起きている。




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