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「胡蝶」と呼ばれた娘が、「どぶねずみ」と呼ばれた娘の身体に落とされる。牢、虫、ネズミ、そして飢えた獅子。憎しみを込めて用意されたその全部が、黄玲琳にとってはむしろ好都合だった。朱慧月は、呪う相手を完全に間違えている。第1話は、その誤算が獅子の形で返ってくるまでを描く。




胡蝶とどぶねずみ——ほうき星の夜に、突き落とされる
『殿下の胡蝶』は、身体だけが動かない
弦耀の時代、詠国。その後宮には、雛宮と呼ばれる宮がある。次期妃を育てるため、五つの名家から姫君——雛女を集めた場所だ。第1話は、黄家の雛女・黄玲琳の手元から始まる。
手掛ける刺繍も、その容姿も、目を奪うほど美しい。女官の冬雪が、その出来ばえをほめる。玲琳付きの筆頭女官で、彼女に絶対の忠誠を誓っている女性だ。
玲琳は聡明で美しく、『殿下の胡蝶』と謳われて周囲から愛されている。皇太子・尭明からの寵愛も受けている。雛宮の頂点に、いちばん近い場所にいる娘だ。
ただし玲琳には、決定的な弱点がある。身体が弱く、動くこともままならない。才も美貌も寵愛も持ち合わせながら、それを載せる器のほうが、まるで追いついていない。この一点を、第1話は静かに、しかし執拗に押さえてくる。
乞巧節の夜、ひとりだけ違うものを見ていた
場面は乞巧節の宴へ移る。皇帝・皇后・皇太子の居並ぶ前で、女たちが自分の手掛けた刺繍を、次々と夜空へ掲げていく。
その中に、玲琳をねめつける女がいる。朱家の雛女・朱慧月。悪女と呼ばれ、皆から嫌われている娘だ。憎しみを、顔に隠そうともしていない。
周囲の女たちは噂話に余念がない。曰く、玲琳は胡蝶。慧月はどぶねずみ。——副題の「雛宮蝶鼠とりかえ伝」とは、つまりこの二つのあだ名のことである。
夜空にほうき星が走り、流星群が降りそそぐ。誰もが手を合わせ、思い思いの願いを祈っている。その神々しい光景の中で、朱慧月の憎しみだけが、異物のようにぎらついて見える。
そして慧月は、玲琳を突き落とす。
同時に、あたりを照らしていた提灯と行灯が、一斉に燃え盛る。玲琳の身体は、はるか下の池へ落ちていく。星の見えていた夜空は雲に覆われ、雷鳴がとどろく。祈りの夜が、たった一人の願いによって塗り替えられた瞬間だ。
牢で目覚めたら、どぶねずみの身体だった
水たまりに映っていたのは、朱慧月の顔
気づくと、玲琳は牢に幽閉されている。
そこへ現れた冬雪が、自分を「朱慧月」と呼ぶ。絶対の忠誠を誓ってくれていたはずの女官が、汚物でも見るような目でこちらを見ている。
混乱したまま、玲琳は足元の水たまりを覗き込む。そこに映っていたのは——朱慧月の顔だった。
突き落とされたあの瞬間に、自分と慧月は入れ替わったのだ。玲琳はそう思い当たる。牢に鏡などない。自分の顔を確かめる手段が濁った水たまりしかない、という絵づらが、置かれた立場をそのまま語っている。
「わたしは黄玲琳です」——その一言だけが、声にならない
目の前の冬雪に、自分は黄玲琳だと釈明しようとする。ところが、その部分だけ声が出ない。禁術は、名乗ることそのものを封じている。
ならばと、玲琳は二人にしか分からない話を始める。長く仕えてきた女官なら、それで気づいてくれるはずだ——という、当然の一手である。
だが、そこも塞がれていた。「黄玲琳の日記が盗まれた」ことになっているのだ。もちろん、そんな日記は存在しない。おかげで玲琳の口から出る思い出話はすべて、盗んだ日記で主人の秘密を知った悪女の口上、という扱いになってしまう。
声を封じ、知識の出所まで先回りして潰してある。朱慧月の術は、ずいぶんと周到だ。
忠誠は、中身ではなく顔のほうについていった
本物の玲琳を、心の底から軽蔑する
第1話でいちばん冷たいのは、この場面だと思う。
冬雪は、玲琳付きの筆頭女官である。玲琳に絶対の忠誠を誓っている。その冬雪が、目の前にいる本物の玲琳を、心の底から軽蔑して罵っている。
忠誠というものが、中身ではなく、顔についていってしまった。仕える相手を取り違えていることに、本人だけが気づいていない。
「先に死んでおけ」という毒薬
そして冬雪は、淡々と宣告する。このあとおまえは、獣人の儀に処せられる。飢えた獰猛な獣の檻に入れられるのだ、と。
さらに、こう言って毒薬を差し出す。玲琳さまは飛び散る血など見たくないので、これを——。
自害しろ、という意味だ。主人の目を汚さないために、獣に食われる前に自分で死んでおけ。忠誠の形をした、まぎれもない殺意である。冬雪はそれだけ言い置いて、立ち去っていく。
なお、この毒薬が第1話の結末を決めることになる。覚えておいてほしい。
炎越しの慧月と、まったく効かない呪い
ろうそくの炎が、人の丈になる
どこからか声がする。牢のろうそくの炎が、人の背丈ほどに燃え上がる。
炎の向こうから語りかけてきたのは、黄玲琳に成り代わった朱慧月だった。
慧月は語り出す。これまでどれだけ玲琳と比べられてきたか。どれだけ見向きもされずにきたか。どれだけ憎かったか。ずっと胸の底に溜め込んできたものを、言うだけ言って、慧月は消える。
捨て台詞は、ネズミと虫に囲まれ、死の足音におびえて暮らせ——。悪女が思いつく、最上級の呪いの言葉である。
ところがこの身体は、どこも痛くない
ところが、である。
玲琳はふと気づいてしまう。油断すればすぐ発熱して動けなくなっていた、あの身体ではない。息が上がらない。どこも痛まない。牢の中で、健康であることに感動している。
入れ替わりは素敵だ、とまで言い出す。牢である。処刑が決まっている。それでもこの人は、生まれて初めて手に入れた「ちゃんと動く身体」のほうに、すっかり夢中になっている。
喜びのついでに、牢を這いまわる便所虫を難なく手づかみにし、ネズミに与えようとまでする。虫もネズミも、玲琳にとっては恐怖の道具ではない。ただの興味深い観察対象であり、餌をやる相手ですらある。
炎越しに投げつけられた呪いの言葉は、この人には何ひとつ効いていない。朱慧月は、呪う相手を完全に間違えたのだ。
そしてこの「効かなさ」こそが、第1話の結末をそのまま用意することになる。
飢えた獅子は、なぜか袖を狙った
檻の中で、いちばん落ち着いていた女
獣人の儀の日。玲琳は朱慧月として、刑場へ引き出される。
ところが、その所作のあまりの美しさに、周囲は思わず目を奪われてしまう。悪女として知られた娘の歩き方ではない。中身が別人なのだから当然なのだが、誰もその答えには辿り着けない。
玲琳は皇太子・尭明に弁明を試みる。だが「自分は黄玲琳だ」と言おうとした瞬間、やはり声が出ない。禁術は刑場でも生きている。
そのまま、檻の中へ。飢えた獰猛な獅子と、二人きりにされる。
——ところが、獅子が飛びかかってこない。そして檻の中の玲琳は、不気味なほど落ち着き払っている。
埒が明かないと見た尭明は、獅子に剣を突き立て、どう猛さを増すよう指示する。皇太子がみずから、獣をけしかけているわけだ。
剣で突かれた獅子は暴れ、玲琳へ向かう。だが獅子が狙ったのは、彼女の身体ではなかった。——袖である。
そして次の瞬間、獅子のほうが倒れる。
周囲の人間は、何が起きたのかまるで判然としない。
毒を呑んだネズミを、弔ってやろうとしただけ
玲琳は説明する。牢の中に、誤って毒薬を呑み込んでしまったネズミがいた。弔ってやろうと思い、袖に忍ばせていた。それを獅子が食べてしまったのだ、と。
——冬雪が「先に死んでおけ」と置いていった、あの毒薬である。
主人の目を汚さないために自害せよ、と与えられた薬が、玲琳を殺さず、ネズミを殺し、そのネズミが獅子を殺した。呪いも殺意も、すべて出した側へそっくり返っている。
しかも玲琳の側に、獣を殺す意図など最初から無い。ネズミを弔ってやろうとしただけだ。虫を手づかみにしたのも、ネズミに餌をやろうとしたのも、この一点にすべて繋がっていた。
地獄のつもりで与えられた道具を、片端から善意で拾い上げていたら、いつのまにか無敵になっていた。第1話の面白さは、ほとんどここに尽きる。
「ふつつかな悪女ではございますが」
食われなければ、無罪
これで、獣人の儀は終了する。食われれば有罪、食われなければ無罪。玲琳は食われなかった。したがって、無罪である。
放免にあたり、皇太子・尭明は言い放つ。所詮おまえは悪女なのだから、分をわきまえて行動しろ、と。
それに対する答えが、そのまま、この作品のタイトルになる。
ふつつかな悪女ではございますが、己に見合った行動をいたします——。
誓いの言葉として、玲琳はそう述べ、放免される。悪女と呼ぶならそれでいい、その名にふさわしく振る舞ってみせよう、という一礼だ。慇懃無礼という言葉があるが、これは限りなく宣戦布告に近い。
迎えに来たのは、莉莉だった
後宮の風紀を取り締まる官・辰宇は、この一部始終を見て、朱慧月とはそんな人間だったか、といぶかしがる。異変にいちばん近い場所にいるのは、どうやらこの男らしい。
そして最後に、迎えが来る。莉莉——朱慧月にさんざん嫌がらせを受けてきた、慧月付きの女官である。
玲琳に絶対の忠誠を誓っていた冬雪は、顔のほうへ行ってしまった。代わりに、いま玲琳を迎えに来ているのは、その顔の持ち主に虐げられてきた娘だ。入れ替わったのは身体だけではない、ということである。
第1話は、ここで幕を閉じる。悲劇のはずの入れ替わりが、開始25分でこの女性にとっての大幅な戦力強化にしか見えなくなっているあたり、なかなか末恐ろしい主人公が出てきたものだ。






















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