この記事の作品:
第9話の副題は「別れの時」。三添船で開かれる洋輔と稲子の婚約パーティーが舞台である。ところがこの回でいちばん多く語られるのは、生きている二人の別れではなく、もう会えない清六との別れだ。洋輔がなぜ目録に執着するのかが回想で明かされ、彼が学生時代に中身を教えてもらえなかったことまで出てくる。そして喜八は、その目録を自分のほうから手放してしまう。




先に別れを選んだのは、稲子のほうだった
目録を渡すと言い出したのは、喜八のほうが先だった
第9話は、喜八が目録を差し出すところから始まる。これを三添洋輔に渡して結婚を解消させてやってほしい、と頼む相手は稲子の父である。第8話の引きにあった「これはキザ野郎に渡す」が、そのまま実行に移された形だ。追いかける場面でも「もう目録はキザ野郎にくれてやってもいいから」と繰り返す。この回で最初に自分の夢を手放そうとしたのは、喜八のほうである。ところがその申し出は受け取られない。「娘の決めたことだ」「君にはもう関係ない」と切られてしまう。
「うち決めました」で、父の問いが宙に浮く
その前に、百川の家では別のやり取りが進んでいた。目録は喜八と兄の大切な夢なのに手放すなんて、と言う規子に、父は「だが彼が決めたことだ」と返す。そして父は規子に、喜八の兄とどういう関係なのかと聞きかける。この問いは最後まで言い終わらない。そこへ稲子が入ってきて「うち決めました」「三添洋輔さんと結婚します」と告げるからだ。あれほど嫌がっていたのに、と驚く父に、蔵が潰れずに済みますと答える。杜氏になる夢はどうするのかと聞かれても「夢、うちは決めたんです」で終わってしまう。遮られた問いのほうは、後半になって別の形で答えが出る。
味方が全員そろって「船に来ないで」と言う
稲子は喜八を、味方ではなく部外者の側に置く
迎えの来た稲子を喜八が追いかける場面が、この回でいちばん苦い。返ってくるのは「来ないでください」「うちの問題なんです」「喜八さんは口出ししないでください」である。これまで一緒に走ってきた相手を、はっきり外に出す言い方をしている。喜八のほうは「なんでだよ」「結婚なんてしたくないんだろ」「稲子には夢が」と食い下がるが、言葉が続かない。第7話で結納から逃げたときは二人で同じ側にいた。同じ二人が、今度は問題の内と外に分かれている。
規子まで「絶対絶対船に来ないで」と頼む
第7話で稲子を送り出したのは規子だった。その規子までが、今回は喜八を止める側に回る。「あの子の決意は硬いわ」「だから絶対絶対船に来ないで」「お願いよ喜八さん」。妹を逃がした人が、今度は行くなと言う。稲子の父も、規子も、稲子本人も、全員が同じことを言っている。つまりこの時点で喜八は完全に孤立していて、それでも船へ向かうことになる。公式あらすじが「喜八に黙って婚約を受け入れるべく」と書くとおり、稲子の側は最初から喜八を計算に入れていない。
洋輔の始まりは、入学式の日の親切だった
転んだ相手に手を貸したのが清六だった
後半は回想が二本入る。一本目が洋輔と清六の出会いで、入学式の日に転んだ洋輔に清六が声をかけるところから始まる。「立てるか」「大丈夫だな。俺は坂本清六」「お前は?」と名乗り、名前を聞いてすぐ「洋輔、よろしくな」と呼び捨てにする。ここまでの八話で描かれてきた執着の出どころが、ごく普通の親切だったと分かる。そのあと本の話になり、入学式が終わるまで待とうと誘われる。第4話で暗がりに向かって「また一緒に、夢を追いかけるんだ」と言っていた人の原点が、この短い場面である。
最初の会話に、すでに弟が入っている
この場面には見落とせない一行がある。清六が本を褒めるときの言い方が「俺と俺の弟も機械や仕掛けが好きなんだけど」なのだ。出会って最初の会話で、清六はもう弟の話をしている。終盤で洋輔は喜八に、清六と学生生活を送ったことがあるかと問い、ないだろうと決めつける。だがその学生生活の最初の一言に、すでに喜八がいた。洋輔が握っているのは一緒に過ごした時間で、その時間の内側にも弟の話は入っていた。のちに「僕は清六と同じ夢を見ると決めたのだ」と言うほど傾倒するが、順番としては清六の夢がまず弟と共有されている。
「秘密だ」と言われた側が、留学へ送り出される
知らないままでは行きたくない、と頼んでいる
回想の山場は、洋輔の留学が決まる場面だ。蒸気機関の本場で学んでこいと家に言われた、と告げる洋輔に、清六は「馬鹿、行ってこい」と背中を押す。電氣と蒸気機関はそれぞれ適した場所で互いに手を取り合っていく、というのがその理由である。行かせたのも、そのあと目録を見せなかったのも、同じ人だ。二十世紀電氣目録とは何かと聞いた洋輔に、清六はとんでもない力がこもっていると答える。だが中身を尋ねると返事が変わる。
「秘密だ」の一言が、八話ぶんの執着を作った
「何が書いてあるの?」と聞かれた清六の答えは「秘密だ」だった。洋輔は「お願い」「知らないままでアメリカに行きたくない」とまで言っている。それでも教えてもらえない。第8話の回想でも、清六はこの本にはもっと大きな秘密があると言いながら、まだ秘密だと繰り返していた。つまり洋輔は、いちばん近くにいたのに中身だけを渡されなかった人である。第3話で目録の中身を見て落書きだと激昂したのも、頭脳の結晶だと思い込んでいたからだった。中身を知らない人ほど、中身を大きく見積もる。そして留学の別れのあと、清六は帰らない人になる。「僕が留学なんかしてる間に」という言い方に、この八話の執着が全部詰まっている。
規子は中身が分からないまま、楽しそうな人を見ていた
出会いは、肩に何かと言われて投げるところから
二本目の回想は、稲子が姉に頼んで始まる。喜八の兄と会ったときの話を聞かせて、という頼みで、前半で父が言い終わらなかった問いの答えがここに出る。スチュワート先生のもとに通っていた頃、肩に何かついていると声をかけられた規子は、そのまま相手を投げてしまう。驚いた清六の第一声が、怒るでも呆れるでもなく「すごいな今の、何て技だよ」だった。四方投げですと答える規子に、起こしてもらいながら「さっきの、今度教えてくれ」と頼む。武術に長けた人と、投げられて面白がる人の出会いになっている。
「電氣は、よくわかりません。なんだか楽しそう」
この回想でいちばん効くのは、規子の短い感想である。スチュワート先生から、電氣の時代が来ると言い張って書籍を読みあさり実験を繰り返している青年だと紹介され、興味があるかと聞かれた規子はこう答える。「電氣は、よくわかりません」。そのうえで「なんだか楽しそう」と続ける。中身は分からないと最初に認めて、それでも見ている。会うたび話すのは始まったばかりの二十世紀のことで、見つめているのはいつも遠い電氣の時代だった、と回想は締めくくられる。中身を教えてほしいと頼んだ洋輔と、分からないままでいた規子が、同じ人を挟んで並ぶ。第7話までに規子が目録を隠し持っていたことを思うと、この差はさらに重くなる。
潜入はドレスで、ワルツは敵と踊る
健吾たちが協力して、船へ乗り込む
公式あらすじが書くとおり、喜八は健吾たちの協力で三添船への潜入を試みる。電氣を通すと磁力が発生して船の横腹にくっつき、反対の手を操作して離す、という道具で船を登っていく場面もある。ここでも喜八が使うのは腕力ではなく仕掛けだ。第7話で暗いところを怖がっていた性質もそのままで、暗くて動けないと言う喜八を健吾が連れて行く。着替えるぞ、という一言のあと、船に現れるのはドレス姿である。喜八のほうも、その健吾も同じ手を使っている。
「そのドレスは頂けないがね」と言いながら踊らせる
目録を受け取った洋輔は上機嫌で、お祝いだから君も踊るんだ、最高の気分だと言って喜八を引っぱり出す。目録を持ってきたことは褒めてやろう、そのドレスは頂けないがね、と続ける。敵役が主人公と踊るという絵面そのものが、この作品の変な体温をよく表している。踊りながら洋輔が語るのは、清六との思い出のあの日も花火が上がっていた、という話だ。婚約パーティーの主役であるはずの稲子を置いて、船の上でいちばん幸せそうにしているのは洋輔である。
おかしいのは、今回に限った話ではない
もっとも、洋輔の情緒が振り切れるのは今に始まったことではない。第4話では暗がりに向かって語りかけ、第7話では逃げた二人を追い回した。今回もパーティーに出ないと駄々をこねたり、姉は絶対に来させるなと言ったりする。その落差の全部に、清六という一人だけが効いている。回想を見たあとで振り返ると、これまで奇行に見えていたものが、教えてもらえなかった人の粘りとして並び直る。
渡したのは目録で、渡さなかったのは中身だった
条件は結婚の破棄で、稲子の夢を買い戻している
渡す場面の言葉は短い。渡すものがあると言って目録を差し出し、これでお前と稲子の結婚はなしだ、もうあいつの夢を邪魔するな、と条件を付ける。自分の夢と引き換えに、相手の夢のほうを取り返している。第8話で稲子は、同じ取引を持ちかけられて「あの目録は喜八さんの大事な夢なんです」「絶対に渡せません」と断っていた。断られた取引を、喜八が自分から成立させに来たことになる。二人とも相手の夢を優先して、そろって自分の側を捨てにかかる。公式あらすじの「すれ違う」は、仲違いではなくこの形を指している。
「君は清六と共に学生生活を送ったことはあるかい」
目録を手にした洋輔は、喜八に向かって優位を確かめにいく。君は清六と共に学生生活を送ったことはあるかい、ないだろう、と言い、清六は僕に目録を渡したのだと続ける。喜八の返しは「それは違う」だけである。目録を書いたのは喜八本人で、清六は借りて戦争に持っていっただけだからだ。ここで冒頭の回想がもう一度効いてくる。学生生活を共にした側が中身を知らず、共にしなかった側が全部書いている。洋輔がどれだけ時間を積んでも、その時間では埋まらないところに目録はある。
「俺は目録がなくても電氣の時代を作る」
締めに喜八が言うのは、才能では兄に及ばないかもしれない、という前置きから始まる。そのうえで、目録に頼ってばかりでは本当の電氣の時代は作れない、俺は目録がなくても電氣の時代を作る、それが兄との約束で今の自分の夢なのだ、と言い切る。手放した瞬間に、目録がなくても成立する側へ移っている。第8話で清六が戦場で言っていた、あいつには俺の手助けなんて大して必要ない、あいつは何があっても新しい時代を作り出せる、という評価の答え合わせでもある。そして目録を手に入れた洋輔のほうは、これで目録に頼る側に固定された。
まとめ、清六との距離が三人とも違う
中身を欲しがった人、分からないまま見ていた人、書いた人
この回で並んだ三人を整理すると、位置がきれいに違う。洋輔は中身を教えてほしいと頼んで断られ、以来ずっと紙のほうを追いかけている。規子は電氣はよくわからないと言ったまま、楽しそうにしている人だけを見ていた。喜八は中身を書いた本人で、その紙を自分から手放した。同じ一人に関わって、欲しがったものが三者三様に違う。副題の「別れの時」も一つではない。稲子と喜八の別れ、喜八と目録の別れ、そして留学の日の別れが、同じ回に重ねて置かれている。
目録が動いて、まだ動いていないものが残る
物としての目録はついに洋輔の手へ渡った。それでも残っているものは多い。父が言い終わらなかった問いの先、規子と清六がどこまで行っていたのか、そして出征の前に清六が誰と会っていたのかという話も、船の上で持ち出されている。手に入れた側が満たされて終わらないのが、この作品の作り方だ。第8話で、目録にはもっと大きな秘密があると清六自身が言っていた。紙が動いたあとに何が出てくるのかが、残り話数の焦点になる。




関連作品:























コメント