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『ワールド イズ ダンシング』第九番の副題は「秘めたる想い」。鬼夜叉と増次郎が組んで舞う演目は、田楽新座に未完のまま置かれていた〈汐汲〉に決まる。足りないのは風情だと言った鬼夜叉は、それを足すために近江の湖まで出かける。一方で読み書きが上達しない千晴は、言葉にするより早く手が出る自分を恥じていた。そして書き上がった詞章について鬼夜叉が語った答えが、一番大事なことは秘めるだった。




未完のまま置かれていた曲が、二人の主役を待っていた
第八番の幕切れで橋の上から差し出された「一緒にやらないか」の、その返事から第九番は始まる。もっとも鬼夜叉が口にしたのは意気込みではなく、自分の不足の申告だった。私は良い舞台を作りたいのだ、しかし私はまだ何もかも足りていない、前回うまくいったのはたまたまなのだ、皆の力を借りたい。そこへ大事なのは勝ち負けではないと気づいたのだ、と続く。
受けた増次郎が出してきた演目が〈汐汲〉である。とある浜辺、満ち潮の夜に二人の海女が塩を汲む。田楽らしい労働の歌だ、という紹介のあとに、この曲は未完成だ、と付け加えられる。持ち出されたのは完成品ではなく、途中で手が止まったままの曲だった。
組める相手が、座の中にいなかった
〈汐汲〉は二人主役が必要な曲で、増次郎と組んで耐えられる奴がなかなかいないのだという。つまりこの座は、看板の役者と並んで立てる相手を長いこと欠いたまま曲を抱えていたことになる。それで私を、と鬼夜叉が引き取る流れになるのだが、裏を返せば組める相手がとうとう座の外から来てしまったという話でもある。座の面々が面白かろうはずがない。
実際、稽古を見た鬼夜叉が足りないと口にしたところから、このガキ、俺らの汐汲に文句つけやがって、と場は荒れる。公式のあらすじが不満は溜まるばかりだと書くとおり、協力の合意は上二人の間にしかなく、下はまだ何一つ納得していない。
田楽は行うもの、猿楽は見るもの
この回でいちばん効いている説明は、増次郎が〈汐汲〉を紹介するついでに置いていった一節だと思う。俺たちの田楽は見るものではなく行うものだった、苦しい労働の中、自らを励まし大地に祈り、賑やかに歌い踊るもの。芸を見せる商売の話ではなく、働く人間が自分のためにやることとして田楽が語られる。
ところが、だが汐汲は物語の要素が強い、お前ら猿楽の舞台に近づけた曲なんだ、と続く。対する猿楽は神事に近い生まれで、もともと見るものとしての性格が強い。行うものと見るものという線が引かれ、〈汐汲〉はその線をまたいだ位置に置かれている。
前回の「猿真似」という悪態の正体
第八番で次の演目案が出たとき、座の者はあれは猿楽に寄せてできたもんだろ、俺らが猿真似してどうすんだ、と反発していた。あの悪態の中身が、ここでようやく観客にも分かる。〈汐汲〉はもともと田楽が猿楽の側へ半歩踏み出して作った曲であり、だからこそ座の中では長く据わりが悪く、未完成のまま置かれていたとも読める。
そしてその曲を、よりによって猿楽の相手と組んで仕上げようと言い出したのが増次郎本人である。誇りとは先人の積み重ねの上にあぐらをかくことではない、と前回言い切った男が、いちばん批判されやすい曲を自分から選んだ形になる。
足りぬと言った者が、足しに出かける
で、鬼夜叉。僕たちに足りないものとは何だ。何が足りない、言え、遠慮するな。そう詰め寄られた鬼夜叉の返事が、え、遠慮するのだ、である。第八番までの張り詰めた空気を思うと、この二人の噛み合わなさは相当におかしい。
話が動くのは、汐汲は労働の歌でしょ、私は働いたことがないから、よくわからなくって、という業子の一言からだ。鬼夜叉はそれを受けて、客にとって労働は身近なもの、しかし業子様のような貴人も中にはいる、誰にでも通ずるものにするにはどうすればいいか、と問いを立て直す。
答えを出したのも業子だった。行ってみれば。塩を汲むのよ、塩汲みなんだから。海はちょっと遠いかしらと言いながら近場の湖を挙げ、こんな小さな池の前で頭を抱えているよりずっといいわ、と背中を押す。働いたことがないと自分で言った人が、現場を見てこいと言うのがいい。
鬼夜叉が気づいていなかったこと
出発の支度で、石也にもお前も来るだろと声がかかる。鬼夜叉が言い淀んだところへ、別の者が、石也はやめとけ、足の運びが以前と変わってる、痛むんだろ、少しは休め、と割って入った。鬼夜叉の返事は、気づかなかったのだ、すまないである。第七番で石也は千晴に足の悪化を問われ、若はそのまま、そのままでいいのですと言って隠していた。隠し通せている相手はいまも一人だけで、外から来た人間のほうが先に足の運びを見抜いている。
残る石也が、皆さんが出てる間にゆっくりさせていただきますねと言ったあと、私たちが作る汐汲、楽しみにしていますと続けるのも効く。舞台に上がれない人間が私たちと言う。
水辺で泥だらけになる軟弱者たち
現地では二人そろって足を取られる。つらそうだな、何をこの程度で。軟弱者でも舞えるなんて、猿楽はなんて素晴らしいんだろうな。猿楽は関係ない、私が軟弱なだけなのだ。自信満々に言うことか。舞比べで殺し合うように争っていた二人が、泥の中で減らず口を叩き合っている。ネットの反応に凸凹コンビという言葉が並ぶのも当然で、この回の見どころの半分はこの空気そのものだ。
歌は時も場所も体も超えるものだよ
湖のほとりの食事どころで、老人が藤若の口元をいきなり拭う。離れろ、誰だ貴様。私を誰と思うておる。まさかすごい偉い人なのでは。そうなのか。ただのジジイじゃねえか。名乗りは最後まで言い切られず、代わりに、私は藤若をいじめる田楽は嫌いだ、とだけ言う。
正体を明かすのは持ち物のほうだった。唐糸草子はもう読み終わったかな、と聞かれた鬼夜叉が、あれはあなたが、と気づく。御所に届いていた読み物の贈り主が、ここで初めて本人として現れる。今度は伊勢物語も持ってこよう、と続くので、この人が鬼夜叉に流し込んでいるのは一貫して物語と歌である。本編では名乗らないものの、視聴者の受け取りは、史実で藤若の後援者となる二条良基でほぼ一致していた。
ここがどこだろうと些細なこと
藤若よ、何か迷うとるな、大体の事情は見てきた、と言うなり、この老人はその場で恋の歌を詠み出す。周りは、ここは近江だぞ、いきなり恋の歌、しかも泣いてる、と散々である。それを受けての一言が、ここがどこだろうと些細なこと、歌は時も場所も体も超えるものだよだった。誰にでも通ずるものにするにはどうすればいいか、と立てた問いに、まっすぐ答えが返ってきている。
この肉の体の内にあることの、なんというもどかしさ
見落とせないのは、その直前に同じ人物がこぼしている台詞だ。ああ私のこの思い、この肉の体の内にあることの、なんというもどかしさ。文脈としてはただの恋の悶えなのに、思いが体の内にあって外に出てこない、という副題そのものの言い換えになっている。出てこないから歌にする、という順番がここで示される。
なお勘定の段になると、喜んで支払おう、藤若の分だけな、と言い放って去っていく。重い話をした直後にこれをやるので、場面としては最後まで笑わせにきている。
嫌なことがあると、言葉にするより早く手が出ます
もう一方の主役は千晴である。座の中で、うるさい裏切り者、お前はもう田楽に興味ないんだろ、と絡まれ、田楽を続ける気なら読み書きなんて習わなくていいだろ、兄がいるからって特別に稽古させてもらってんのに、まで言われて、とうとう手が出る。庇おうとした石也の、読み書きを、という言葉が最後まで届かないのが痛い。
直後の千晴の内心が、見られた、見られてしまった、あんなところ、である。手を出したこと自体より、それを見られたことのほうがこたえている。
その後、業子に自分の描いたものを見せる場面で、千晴は初めて中身を言葉にする。ずっと美しいものに憧れていたのです、舞台の上の世界にも、私も美しく咲き、そんな自分を誇らしく思いたかった。そこから、でもダメです、私は何も成し得ないのです、読み書きもまだ全然、嫌なことがあると言葉にするより早く手が出ます、そんな自分が嫌なのですと落ちていく。
思いはいつも、ここにしまい込まれている
返ってきたのは、私は好きよ、の一言だった。思いがある人は、どんな時でも美しいわ。思いはいつも、ここにしまい込まれている。だからこそ尊いの。あくびをしていても、歳を重ね頬がこけても、顔に墨がついたって尊さは同じ、何かを成し得なくったって美しいことには変わりない、と続く。成し得ないと自分を責めた相手に、成し得なくてもいいと真正面から返している。
表情で運ぶ回に、作画監督が八人
公式の各話クレジットを見ると、第九番はコンテが鈴木行、演出が萬澤周、そして作画監督が八人並ぶ。四人だった第八番の倍である。制作側の投稿でも、そのうち一人が第一話以来の参加で、目がプリティー強めでキャラを描いてくれたと紹介されていた。言い争いより表情の芝居で運ぶ場面が多い回なので、この布陣は納得がいく。
一番大事なことは秘める
湖から戻った鬼夜叉は、足りないのは風情だと言う。今の汐汲はまだ行うものから抜け出せてはおらぬ、都ではいろんな境遇の人も汐汲を見るのだ、姉妹が暮らす土地の色、匂い、風、姉妹の思いを風情に乗せることでより多くの人に届くものになる。そのうえで、私が汐汲を描き直してみるのだ、と言い出した。
当然もめる。お前の意見は助かる、だが汐汲は俺たちの演目だ、俺たちで変える。何を根拠に、やったことがあるのか。ないのだ。それでも、私が足りぬと思ってしまったからには、私が足してやらねばならぬ気がするのだと譲らず、もう知らん勝手にやってろ、じゃあ勝手にやらせてもらうのだ、で物別れになる。
なんでこんなにイライラする
面白いのは、そのあとの増次郎が自分でも説明できずにいることだ。猿楽に協力を申し出た時点で、歌に関わってくることは分かっていたはず、なのに、なんでこんなにイライラする。座の者が、あいつはあんなにやってんのに、とこぼすのを聞いた後だけに、苛立ちの正体が悔しさであることは本人以外には見えている。
足を運んだ石也の部屋には本が積まれていた。稽古以外の時間はずっと読み書きばかりでした、という説明に、増次郎が、観阿弥殿はあいつがこうなることを見越して読み書きを、と返す。万葉集、古今和歌集。先人の残した思い、古き良き強い言葉の力、その力を借りるのだ、という鬼夜叉の言葉と合わせると、父が持たせた道具がここで初めて使われたことになる。
書き上がったものを、最初に読むのは
そして書き上がった詞章を最初に読むのが千晴である。きれい、と声が漏れ、やってみますか、と勧められる。読み書きなんて習わなくていいと言われた少女が、読めるようになったから受け取れている。ネットの反応に美しい構成という評が出ていたのはここで、千晴の稽古は横道ではなく本筋につながっていた。
残った疑問を増次郎が突く。足されているのは主に情景で、肝心の思いが分かる言葉は書かれていなくはないか。鬼夜叉は、そうなのだ、私も書き上げてみて、まだ思いが足りぬと感じた、と認めたうえで、しかし本はこれで良いと思う、と言う。理由が、一番大事なことは秘めるだった。どんなに奥に秘めようが、思いは必ず体に現れる。言葉で済むなら私たちはいらぬ。私たちは曲に思いを秘めながら舞台に立つ。秘められた思いは舞台の上で花を咲かせる。そこで初めてこの汐汲は完成する。だから皆の力が必要なのだ。
まとめ、秘めるという言葉が三度、別の場所で言われている
田楽はもう後戻りできないかもしれない、この汐汲を舞いたい。増次郎がそう告げ、鬼夜叉と共に舞台に立つことを望んでいる、と続けると、やろう、と返る。第八番から持ち越された申し出が、ここでようやく座の返事として完結した。
こうして並べると、副題の秘めたる想いは一人のものではない。言葉にするより早く手が出ることを恥じる千晴、体の内にある思いのもどかしさを歌に逃がす老人、そして言葉で済むなら私たちはいらぬと言い切る鬼夜叉。三人が三様に、外へ出ない思いの扱い方を語っている。
とりわけ効いているのは、千晴が欠点だと思い込んでいるものが、同じ回のうちに芸の核心として肯定されてしまう並べ方だ。思いはいつもここにしまい込まれている、だからこそ尊いの、という業子の言葉と、一番大事なことは秘める、という鬼夜叉の結論は、立場も年齢も違う二人が同じことを言っている。千晴には届いていないが、観客には両方が聞こえている。
最後に置かれた、台詞のない舞
そして本編の台詞は、やろう、で終わる。そのあとに置かれた場面には言葉が一つもない。痩せた体で舞うコガネの姿に、ネットの反応が集中していた。第八番で、そっち側の君には分かりっこない、暗闇の中にいる人間の気持ちなんて、と突き放していった相手である。秘めた思いが舞台の上で花を咲かせると鬼夜叉が語った直後に、舞台の外で舞う人間が黙って映される。
この回で〈汐汲〉に足されたのは、あくまで情景のほうだった。肝心の思いは書かれないまま伏せられていて、それが本当に体に現れるのかどうかは、舞台の上でしか分からない。次の舞比べは題目が随意で、勝てとまで言われている。秘めたものが花になるか、ただ伝わらないだけで終わるか。答え合わせはまだ先である。




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