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『天幕のジャードゥーガル』第10幕の副題は「知恵」。ところがこの幕でシタラは、自分がボラクチンに吹き込んだ言葉で足元を崩される。仇は死に、八年追い続けた『原論』も戻ってくるのに、目的は達成されたのではなく、他人の都合で消えてしまう。そして懐柔のために差し出された贈り物が、味方が口を割っていない証拠になる。一方のトルイは、自分の役目は終わったと計算して身代わりを引き受けていた。




力の人が、知恵の時代が来たからと退場する
第10幕の副題は「知恵」である。オゴタイが急な病に倒れ、祈祷の場で告げられるのが、病人を助けるには身代わりが必要だ、誰かこの水を飲み干してください、という要求だった。手を挙げるのがトルイで、なら俺だな、と一言で決める。この幕は最初の三分で、力の人が自分から身代わりを引き受けるところまで行ってしまう。
冥界で兄を見つけた弟が言うこと
その決断の内側が、地底の情景として差し込まれる。囚われているオゴタイのもとへ、天井も地底もくまなく巡ってやっとここへたどり着いた、と言ってトルイが現れる。帰りましょうと促すが、この天幕から魂が一つでもなくなれば精霊たちが気づいてしまう、と断られる。だから代わりに残る、というのがトルイの答えだ。
理由の付け方が容赦ない。俺は戦争しかできないけれど、宿敵の金国はもう倒してしまった。これからは賢い兄上が作る時代だから、と言うのである。第9幕で嵐を呼び、十五万の軍を退けた男が、自分の役目はもう終わったと計算して席を空ける。別れ際の言葉が、地上ではどうか気をつけて、俺の代わりにソルコクタニを守ってやってください。差し出すのは命で、託すのは妻である。
第7幕の副題が「兄弟」で、第9幕でトルイが手柄をまるごと兄の軍旗に付け替えていたことを思い出すと、この幕の退場は唐突ではない。この弟はずっと、自分の手柄を兄の側へ寄せる方向にしか動いていない。最後に寄せたのが命だった、というだけである。
ナレーションが、死因を確定させない
地上でのトルイの死は、伝聞の形でしか描かれない。祈祷が終わってすぐ、帰る途中で急に苦しみだし、ソルコクタニのもとへたどり着いてまもなく、という報告が入るだけだ。そしてナレーションが判断を保留する。トルイは身代わりになって死んだ、それは真実かもしれないし、真実ではないかもしれない。
続く一文が、この作品らしい割り切り方だった。ただ確実なのは、いびつなまま保たれていた帝国の力関係が、トルイの死で大きく動いたということである。原因は分からないままでいい、結果だけを確かめる。第9幕でジャダ石の嵐を呼んだときも、天が味方したのかどうかは最後まで断定されなかった。同じ書き方がここでも通っている。
この動きは、シタラの立場も裏返す。周囲の口から出るのは、トルイ家には戻らないほうがいい、という忠告だった。理由が痛い。ソルコクタニは最悪を回避するためにお前を送った、ところがその最悪が起きた、だからお前は信頼を裏切ったことになる、というのである。第4幕でソルコクタニから受けた極秘の命令が、果たせなかった時点で罪状に変わっている。本人にできることは何もなかったのに、送り出された事実だけが残る。
戦利品として人が運ばれてくる
その直後に置かれるのが、戦利品の報告である。金国の都から連れ帰った者たち、と紹介されるのは学者、医者、技術者。我が国の発展に貢献することでしょう、という言葉に、これがお土産ですか、と返る。知恵が人の形をしたまま荷物として届く。副題が「知恵」である幕の入口に、この場面が置かれているのは効いている。シタラ自身も、もとは同じように運ばれてきた側である。
シタラが吹き込んだ言葉が、そのまま返ってくる
ボラクチンがシタラを呼び出す。お前の働きでオゴタイは見事に回復した、そのお礼がしたかった、と言って差し出されるのが『原論』である。お前が欲しがっているとソルコクタニに話したら快く譲ってくれた、と説明が付く。八年かけて取り返せなかった本が、褒美として一度に戻ってくる。
歪みを正す、という言い方の出どころ
そのうえでボラクチンが語る筋書きが恐ろしい。トルイがあんなことになったのは不幸だった、だが私はこれを天命だと思う、と。オゴタイにはこの帝国を新たな時代へ導く知恵がある、それを叶えるにもトルイがいては難しかった、と続く。そして決め手がお前も言っていただろう、力も知識もトルイ家に偏るのは恐ろしいと、私はこの機会に歪みを正すである。
第8幕でボラクチンの懐に入るために、シタラ自身が使った言い方がこれだった。警戒心を煽るために置いた材料が、そのまま実行の理由として返ってくる。しかも返ってきたときには、味方であるはずのドレゲネの側が窮地に落ちている。締めの一言が、これからの帝国を作るのは力でない、知恵だ、自分の知恵を存分に使ってみたいと思わないか、こんなに楽しいことはないぞ。冥界のトルイと同じ結論を、地上でボラクチンが言っている。
誘い方も丁寧で逃げ場がない。あの女のことはもう忘れなさい、あの天幕も今日のうちに解体しよう、お前は私の天幕のそばへおいで、と居場所ごと移そうとする。見せられるのは、モンゴルの馬蹄が届く限りのいろいろな土地を知りたい、という当人の望みだ。差し出されているのは地位ではなく、知りたいという欲そのものである。第4幕のソルコクタニが「世界は草原よりも広いわ。私は知りたいの」と言っていたのと、同じ形の欲がここにも並ぶ。
目的は達成されたのではなく、叶ってしまった
本が戻り、仇はいなくなった。それでもシタラの顔は晴れない。整理の仕方がはっきりしている。奥様が守ろうとした『原論』、奥様が命を落とすきっかけになった本。その奥様を手にかけた敵ももういない。私の生きる目的は、奥様の奴隷としてこの本を取り戻すこと。そしてそれももう、叶ってしまいました。
達成ではなく、叶ってしまう
言い方が達成ではないのが肝心なところだ。自分で取り返したのではなく、他人の都合で目的のほうが消えた。八年ぶん積み上げた理由が、自分の手の届かないところで片づけられてしまった。第4幕でシタラは、あの本はいつだって私の手の中にあったのに取り返せてはいない、手では取り返したことにならないの、と言っていた。手に戻ってきた今も、やはり取り返したことになっていない。
回想で並ぶのがムハンマドの旅立ちである。あらゆる知恵と出会いたい、真理を探して、と言って出ていった相手に、あの時は悔しかった、羨ましかった、と打ち明ける。そのあとに続くのがあなたの短かった一生分より、たくさんのことを知ったわという一言だ。ところが同じ場面で、自分は今どこにいるのかも、何が起きているのかも、この先どうなるのかも分からないでいる、と突きつけられる。賢くなればどうすればいいか分かる、と教わって始まった話なのに、いちばん知識を蓄えた時点で何も分かっていない。
敵がよこした本が、味方の証拠になる
この幕でいちばん見事なのが、ここからの一手である。ボラクチンは本の説明をこう付ける。それは幾何学という学問の本だろう、お前はかねてより興味を持っていたと聞いている、確かお前の父親が学者であったとかで。シタラは、その通りですわ、と合わせる。
知っている範囲の狭さが、そのまま答えになる
そして気づく。ボラクチンが知っているのは、本を欲しがっていることと、父親が学者だったことまで。ドレゲネと交わした最大の秘密、自分がメルキトの出であることは、一言も伝わっていない。回想で置かれるのが、私の名はシタラ、奴隷です、メルキト人だったことは誰にもあげない秘密にしたのです、あなたも秘密にしてね、というやりとりだった。
結論が、ドレゲネ様は守ってくれたんだわ、私たちの秘密を、私たちの怒りを、である。懐柔のために差し出された贈り物が、その説明の仕方だけで、味方が口を割っていない証拠になっている。敵が見せた手札の欠けている部分から、味方の忠誠が読み取れる。知恵で負けた回の中で、シタラがただ一つ知恵で勝ち取ったのがこの読み取りだった。
復讐の理由を失った直後に、助けたい人ができる
動き出したシタラが最初に頼るのが、出世したがっている男である。協力してくれたら誰にでも紹介する、という条件の付け方で、相手の欲を正面から使う。トルイ家はもう終わりだと言った理由も確かめる。残された側があの勢力を維持できるとは思えないから、という答えが返る。この男は損得を隠さないので、情報として正確である。
悔しがっている場合ではない、と自分で言う
トルイ家の側は、本を持っていかれても取り返そうとしない。必要ないから全部渡す、という判断が出てくる。それを見た協力者の感想が、諦めたやつについていくのはごめんだ、というものだった。ここでシタラが切り替える。でも今は、悔しがってる場合じゃないわ。今すぐ助けたい人がいるの。復讐の理由が消えたその日に、初めて助けたい相手ができている。
たどり着いた先で会うのが、ドレゲネを救うために手を尽くしているという男だ。ただし主人はドレゲネではない、と言う。話せば長くなる、ついてこい、と連れていかれた先の相手が、ドレゲネの長男だった。救出に動いている側の主人が、救われる側の息子である。なお、この道中に唐突な入浴の場面が挟まるのは、視聴者の反応でも謎のサービスとして話題になっていた。
脚本は第8幕と同じで、絵コンテと演出と作画監督が一人に集まる
公式サイトの各話スタッフによると、第10幕は脚本が佐藤寿昭で、これは第8幕と同じ。ボラクチンが本格的に動く二つの幕を同じ書き手が担当していることになる。目を引くのが画づくりのほうで、絵コンテと演出とレイアウトを一人が兼ね、その人物が作画監督にも名を連ねている。副題が「知恵」の幕で、シタラが誰かの手のひらの上を歩かされていることを思うと、画面の側も一人の設計で統一されているのが妙に噛み合っている。




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