この記事の作品:
『手札が多めのビクトリア』第8話は、脱走の理由がついに明かされる回だ。8歳で家族から引き離され、毎月の仕送りだけを支えに働き続けた先で、彼女が知ったこと。一方アシュベリー王国では、国が彼女を「殺されたこと」にして守ろうとする。一度は自分で死んでみせた人が、今度は他人の手でもう一度死ぬ。そして牧場では、ノンナが「お母さん」と呼び始め、自分の手札を一枚増やしている。




開幕は牧場、名前も性別も置き換えた二人の日常から
第7話は失踪で終わっていた。第8話が最初に見せるのは、追跡でも捜索でもなく、羊のいる牧場だ。呼びかけられるのは「マリアさん」で、探されている子供は「坊や」である。
住み込みで二か月、すでに戦力になっている
「羊たちはどうだい?」に「病気も怪我もなく、みんな元気いっぱいです」と返し、藁の入れ替えを終えて戻る。「まだ2ヶ月だってのに、あんたは飲み込みが早いね」と驚かれ、返す言葉が「体と手を使う仕事が好きなんです」だった。
第2話で伯父の書斎を一晩で整え、第6話で毎朝走り込みをしていた人物である。逃亡先でも同じやり方で信用を作っている。「素性の知れない私たち親子を住み込みで雇っていただいて」という礼に対する答えが、この回の最後に効いてくる。「いいんだよ、世の中には女房を殴る男も多いからね」。
呼び名の練習が生活の一部になっている
毛糸の話をしながら、確認が挟まる。人前では「ビッキー」と呼ばないこと。返事は「わかった」の一言だ。第4話で交わした「これからも話し合って暮らしていこう」という約束が、そのまま逃亡の作法になっている。
独白も静かだ。「あの日、ノンナは文句一つ言わずについてきてくれた」「名前を変えて暮らすことにも少しずつ慣れようとしている」。置いていかれた経験のある子が、今度は自分から名前を捨てる側に回っている。
出て行った理由は第7話の推理そのままだった
第7話でビクトリアは、手合わせを口実に隣人の正体を確かめ、「誰かが私の動向を探らせるために、マイルズさんをあの家に住まわせた」と結論を出していた。第8話の独白は、その先を引き受ける。
「マイルズさんがどこの手先かはわからない」「もしかしたら裏なんてないかもしれない」。それでも動いた理由が「それでも組織の可能性がごくわずかでもあるなら、ノンナを組織に近づけてはいけない」だ。確証がないから残るのではなく、確証がないから出る。工作員の判断がそのまま母親の判断になっている。
仕送りは届いていた、家族はもういなかった
第4話でビクトリアはこう語っていた。「工作員になってから信用した人は一人しかいない。そのたった一人が私の信頼を踏みにじったから、ここにいる」。人物も出来事も伏せられたままだった過去が、この回で全部出る。
働いていた理由は、ずっと家族だった
回想は事実の羅列から始まる。「8歳の時に家族から離れて、ランコムに拾われた」「初仕事は15歳」「それからただひたすらに働いた」。そして理由が置かれる。「家族のためにも」。
連絡は禁じられていた。だからこそ迂回路を頼んでいる。「だから私はランコムに頼み、毎月ちょっとした品物とお金を送ってもらっていた」「両親と妹は喜んでいた」「それが私の心の支えだった」。
第7話で漏れた独白が「あの時、8歳の私を手放した後、両親は寂しいと思ってくれただろうか」だった。手放された側が、手放した側を支え続けていたという形が、ここでようやく見える。
十年後に立ち寄った故郷
「10年が経った頃、仕事の後に故郷へ足を伸ばした」「遠くから一目だけでも家を、いや家族を見たかった」。会うつもりすらない。見るだけでいい、という寄り道だった。
そこにあったのが焼け跡だ。「家は火事で燃え、両親と妹は亡くなっていた」「2年も前のことだった」。仕送りは、二年間どこへ行っていたのかという疑問がそのまま残る。
「私は彼に騙されていたのだと」
決定的なのは、事故ではなく約束の話であるところだ。「彼は私がどれだけ家族を大切に思っていたかを知っていた」「連絡は取れなくても、家族の死だけは教えてもらえる約束だった」。
そして「その時ようやく気づいた」「私は彼に騙されていたのだと」。知らせないという選択が、二年間続けられていた。伝えれば働かなくなると分かっていた側が、伝えないことを選んでいる。
第6話で組織の教えとして出た「終わった仕事はすべて忘れろ」「後悔は毒にしかならない」も、同じ思想の別の言い方だったことになる。忘れさせる技術と、知らせない技術は地続きだ。
一度目の死は、自分で用意している
脱走の手口も語られる。「ランコムとメアリーの結婚の噂は絶好のチャンスだった」「私はランコムへの恋心をほのめかし、彼の結婚にショックを受け、命を絶ったように見せかけた」。
メアリーは第6話の回想で、指示と違う配置を強行して新人を死なせた同僚だ。その相手との結婚話を、自分の退場の理由に使っている。組織が信じそうな筋書きを、組織の中の出来事から組み立てている。
締めが「40代まで現役で働き、引退後は後輩を育成する。そんな生き方をランコムに勧められていた」「でも今は組織に人生を捧げる気持ちも義理もない」、そして「私は使い勝手のいい道具でしかなかったのだ」だ。裏切られたのは信頼で、失ったのは働く理由だった。
失踪直後のアシュベリー、先に来ていたのは第三騎士団だった
公式のあらすじが「その2ヶ月前」と断るとおり、ここから時間が巻き戻る。牧場の穏やかさの裏で、何が処理されていたのかが順に出てくる。
世間話の形で始まる不審者
きっかけは部下の雑談だ。「この前酒場で女性に話しかけられたんです」「団長に世話になったからお礼がしたいって」「一目惚れしたそうで、団長に恋人がいるのか聞かれましたよ」。
判断は速い。「おそらく狙いは俺ではなくビクトリアだ」。そして「しばらくヨラナ夫人の屋敷を第二騎士団が警護する」「特に夜間だ」と手を打つ。第7話で「彼女が本気で姿を消したら、もう俺には見つけられないだろう」と予想していた人物が、その予想の外側で守りに入っている。
別ルートの情報が、先回りしている
屋敷で鉢合わせるのが第三騎士団だ。「あなたたちのことはどこからも何も聞いていないが」という詰問に、返ってくるのが「お宅とは別ルートで情報が入った」「こちらの屋敷がハグルの暗殺部隊に近々襲撃されるとね」。
しかも屋敷の住人はすでに避難済みで、後から「もう数日とどまるよう伝えてくれ」と念押しされる。警備の専門家が駆けつけた時点で、危険はすでに管理されていた。第7話でクラークの家庭教師という職そのものが監視だったと明かされた構図が、そのまま繰り返されている。
それでも譲らない一点
「第二騎士団は警備が専門でしょう」「ここは我々にお任せください」と押し戻されて、返すのが「いや、暗殺者の相手は俺がする」だ。「怪我しても死んでも文句はなしですよ」「もちろんだ」。
第6話でビクトリアは「私のことでそんなこと頼めませんよ」「自分のことは自分で対処します」と助けを断っていた。頼まれなかった側が、本人がいない場所で勝手に引き受けている。
「それ、アシュベリーでは奴隷って言うけどね」
捕らえた暗殺者からの聞き出しは、拷問ではなく事務的に進む。この場面が、ビクトリアが抜け出した組織の輪郭をいちばんはっきり見せる。
注射一本で自己紹介まで済ませてしまう
切り出しは丁寧だ。「君がリーダーかな」「驚いただろう」「アシュベリーにも地味だけど、特殊任務を請け負う組織はあるんだよ」。そして「安心してね、注射を一本打つだけだ」「うちはお宅と違って手荒なことはしない」「私もそういうの見たくないしね」。
出てくる情報は具体的だ。狙いは「クロエ」で、人相は茶色の髪、茶色の目、27歳。理由は「脱走した」ことで、失敗はしていない。「突然消えた」だけである。
「忠誠を失った犬は殺せと陛下が」
処分の根拠として出るのが「忠誠を失った犬は殺せと陛下が」だ。手続きも裁定もなく、比喩がそのまま命令になっている。
続く問いが効く。「随分な忠誠心だね」「やめたくなる者はいないのかい」。答えが「やめる者などいない」「動ける限り動く」「教官、事務、雑用」「仕事はいくらでもある」「組織をやめることはない」だった。抜けるという発想そのものが用意されていない。
そこへ置かれるのが「それ、アシュベリーでは奴隷って言うけどね」である。本人たちが福利厚生として語った内容が、外から見ると身分の説明になっている。第2話から積み上げてきた組織の描写に、初めて外部からの呼び名が与えられる。
ビクトリアが選んだ道の重さが変わる
この定義が入ると、第5話の独白の意味も変わる。「私はもう組織の人間ではない」「なのに普通の幸せを手にしつつある自分が、彼らに後ろめたく感じるのはなぜだろう」。
後ろめたさの相手は、抜けられると思っていない人たちだった。先に出た者の罪悪感として描かれていたものが、残された側の不自由として言い直されている。
二度目の死亡扱いと、わざと示された逃げ道
聞き出した情報の使い道が、この回でいちばん重い決定になる。
国が彼女を「殺されたこと」にする
裁定はこうだ。「陛下のご判断で、彼女はハグルの人間に殺されたということになった」。理由も合理的である。「ビクトリアが生きていると知れば、ハグルの連中が繰り返し暗殺者を送り込んでくる」。
工作員だったことも「気づかなかったことにする」。身元は「彼女が成り済ました身元の通りだ」とされ、ランダルから来た一般人が理由も分からずハグルの人間に殺された、という記録が残る。
ここでビクトリアはこの作品の中で二度死んだことになる。一度目は組織を抜けるために自分で用意した死で、二度目は守るために他人が用意した死だ。やり方が同じで、目的だけが正反対になっている。
二度差し出された逃げ道を、二度とも使わない
ジェフリーへの問いは選択肢の形をとる。「君は彼女の正体に気づいていたのか、気づいていなかったのか」。答えが「うすうす気づいておりました」「報告せず申し訳ございませんでした」だ。
返ってくるのが「んー、よく聞こえなかった」である。聞こえなかったふりは、言い直しの機会にほかならない。それでも答えは変わらない。「確証はありませんでしたが、うすうす気づいておりました」。
駄目押しが「知らなかったと言えば済むのは分かるだろう」だ。逃げ道が、これ以上ないほど明示される。それでも使われないので、処分が下りる。「自宅で謹慎して待つように」「ビクトリアの件は生涯他言無用だ」。
第3話で語られた古傷は「頼られる存在になれなかった」というものだった。頼られなかった人が、頼まれてもいないのに全部かぶっている。部下の「どうしてですか」に返るのが「頑張れよ」の三文字だけだというのも、この人らしい。
「私の部署は雑用係みたいなものだから」
兄との会話は穏やかだ。詫びる弟に「気にしなくていい」「私の部署は雑用係みたいなものだから、お前の退任の影響は全く受けないよ」と返す。赴任先については「気候が穏やかで海も美しい」と褒め、最後に「それよりお前、少し痩せたんじゃないか」と気遣う。
第7話で明かされていたとおり、弟はこの兄が第三騎士団であることを知らない。今回の一件を先回りして片づけたのも、暗殺者を捕らえたのも、その「雑用係」である。助けた事実を伏せたまま、弟の心配だけをするという形になっている。
その兄の独白がまた良い。「ビクトリアの身の安全も確保できたが、当の本人が見つからないのでは伝えようがないな」「ま、なるようにしかならないか」。そして「今のうちに次の情報提供者を作っておかねば」「やることは山積みだ」。善意も職務も済ませたうえで、次の仕事に移る。この回で誰よりも動いた人物が、いちばん軽い調子で場を離れる。
「お母さんって呼んでもいい?」と、増えていた手札
牧場の側では、静かに関係が変わっていく。しかも変わる理由が、いちいち実務的だ。
呼び名が変わる理由は、感情ではなく安全だった
町へ出る相談の途中で切り出される。「ねえ、これからお母さんって呼んでもいい?」。理由が続く。「名前だと間違えてビッキーって言っちゃいそうになるから」。
第6話でノンナは、大人の手元の癖を読んで場を収めるために養女の話を引き受けた子だった。ここでも同じ頭の使い方をしている。呼びたいからではなく、間違えないための提案として持ち出す。
返事は「もちろんいいわよ」「お母さんって呼んでね」で、そのまま涙になる。「なんで泣くの?」「なんでもよ」「ありがとう」。そして「お母さんはいつもありがとうって言うね」。第5話で「いつかこの身にバチが当たることを、私は覚悟している」と言っていた人の口癖が、子供に見つかっている。
小銀貨8枚という具体的な数字
町での商談も具体的だ。「小銀貨8枚でどう?」と値がつき、「あら、この子が編んだの?」と驚かれる。返す説明が「モチーフはこの子が」「二人で繋いで大きくしました」だった。
帰り道の独白が、この作品の題名に触れる。「いつの間にかノンナも手札を増やしていたみたいね」。手札という言葉が、初めて主人公以外に使われている。守られる子供が、稼げる同居人になった瞬間だ。
羊のお産から、置き去りにされた話へ
その夜、ノンナは羊の出産を見たいと言い出す。見終わった後の感想が「赤ちゃん可愛かった」「お母さん苦しそうだった」で、そこから話が飛ぶ。「いなくなったお母さんも苦しかったのかな」。
答えははぐらかされない。「苦しくないお産はないと思う」「人間はもっと長くかかるかもね」。そして「ノンナのお母さんも頑張って産んでくれたのね」「それにノンナも頑張って産まれてきてくれた」「あなたに会えて本当によかったわ」。
続く独白が、この回でいちばん遠くまで届く。「ノンナを捨てた母親にはいい感情なんてなかったけど、初めて感謝するわ」「ノンナを産んでくれてありがとう」。
第4話でビクトリアは、ノンナが一度も泣かないのは「我慢をさせたから捨てられた」と思い込んでいるためだと推し量っていた。その母親を、今度は感謝の対象として置き直している。家族に嘘をつかれ続けた人が、子供を捨てた人に礼を言う。この回の二本の柱が、ここで一度だけ交差する。
まとめ、追いつく手がかりが、そのまま逃げる理由になっている
終盤は追跡になる。だが追う側が近づくほど、追われる側が消える速度も上がっていく。
「別の名前で暮らしているのか」
見送りの場面で、ヨラナ夫人は「あの家はそのままにしてあるの」「あの子たちがいつ戻ってきても困らないようにね」と言う。帰る場所は残されている。
一方、追う側の推測が「君は今、別の名前で暮らしているのか」だ。手がかりは「黒髪の親子」で、第6話でカツラの材料を買っていた場面が、ここで回収される。
性別を変えた一手が、そのまま検問を抜けさせている
検問所の記録を当たると、探している条件では出てこない。「母親は20代後半」「子供は6歳ほどの女の子」「記録にはないですね」。ところが「母親と息子ならランダルへ一組出国していますが」と続く。
名前も出る。「母親の名はマリア」「息子の名はライル」。娘を息子にするという一手が、記録の検索から二人を消していた。それでも当たりを引くところが、この追跡の粘り強さになっている。
売れた編み物が、そのまま足跡になった
町の店での証言が決め手になる。「編み物はうちで買い取ったんです」「出来が良かったので今後も売らせて欲しいと伝えたんですが」「それ以来まだ来ていませんね」。
出来が良かったから覚えられ、覚えられたから足がついた。ノンナが増やした手札が、そのまま二人の居場所を指す矢印になっている。同じ理由で、二人はもう動いた後だ。
用意された言葉と、それを聞く相手の不在
追う側の覚悟は決まっている。「君のために身分を捨てる覚悟はできている」「騎士団はもともと辞めるつもりだったんだ」「三人で生きていくために」。伝えたい内容も決まっている。「もう逃げなくていい」「一人で抱え込まなくていい」。
第7話で「一緒に暮らそうと告白した途端に、ノンナを連れて姿を消す気がする」と予想し、告白しないまま当てられていた人物である。今度は告白する側に回っているのに、受け取る相手がすでにいない。
牧場での最後のやりとりが残酷に効く。「ここにマリアとライルはいるか」に返るのが「あんた旦那かい」で、続くのが「二人はもういないよ」「いないと言っただろう」。冒頭で雇い主が言った「世の中には女房を殴る男も多いからね」という一言が、ここで追ってきた男の身分証代わりになっている。
結末は「三日前に出て行ったよ」「行き先も言わずにね」だ。身分を捨てる覚悟をした人が、名前を捨てた人に三日届かない。この回で明かされた脱走の理由は、信じた相手に知らせてもらえなかったことだった。そして今回、彼女が知らされていないのは、自分が死んだことになっているという事実である。知らせが届かないという同じ形が、今度は善意の側で起きている。




関連作品:
























コメント