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第六怪は、妹御子が姉と父母に「同じ様」を返すところから始まる。そのまま薫がビームをねだる現代へ飛ぶ落差がこの作品の呼吸で、連休に訪れた海辺では廃れた神・ワタガメ様の伝承が待っていた。サブタイトルのとおり、そこにいたのは水神ではなく幻影だった、という回である。




「辛うございました」と、妹御子は姉に返した
怨霊にまで落ちた魂だから、あの大蛇と混ざれた
第六怪は、前回の続きから静かに始まる。まず語りが説明するのは、そもそもこれが無理筋だったという事実だ。妹の魂が、巫女らを憎悪するヤマタギマダラとそのまま混ざることは本来ありえない。それでも混ざれたのは、彼女の魂がすでに怨霊にまで落ちていたからだった。
落ちた理由も同じ語りが告げる。強く美しく、信頼していた姉の裏切り。その絶望が彼女を怨霊にした。そのうえで彼女は己の魂を食わせてまで、ただ一時を借りたのだという。現在でいう約二時間。それが代価として得られた時間のすべてである。
二時間という区切り方が生々しい。復讐のために永遠を手に入れたのではなく、魂を差し出して二時間だけ買ったのだ。だから彼女には迷いも無駄もない。前回の惨さをそのまま引き受けた開幕で、こちらは最初から息が詰まった。
足は手付けに、腕は術のため
借りた二時間で何をしたのか。語りは短い言葉で並べていく。足は手付けとしてオロチに捧げ、腕は奪って術をなす。前回、術封じのために腕を、逃走封じのために足を落とされた側の人が、その両方を自分で調達する側に回っている。
そのあいだ、彼女は丁寧に丁寧に言葉を置く。「辛うございました」「苦しうございました」「痛うございました」「悲しうございました」。自分がされたことを一つずつ数え上げながら、姉を同じ様になり果てさせる。悲鳴ではなく、最後まで丁寧語のままなのが恐ろしい。
そして語りは名前を告げる。決して近づいてはならない、見れば障り、触れば祟る、古よりその名をヤマタギマダラ。「お前は、そう呼ばれていた」。あの祟り神の呼び名が生まれる瞬間に、こちらは立ち会わされることになる。
手足の出どころが一気に説明されてしまう構成が容赦ない。普段こたつでダラダラしているあの姿と、この場面が地続きなのだと思うと、六本ある腕をもう同じ気持ちでは見られない。しばらく言葉が出なかった。
ビームが撃ちたい。祟り神への無茶な相談
冒頭から全開の「ガン・バルゼー」
重い過去編から画面が切り替わった途端、薫が全力でロボットアニメの主題歌を歌っている。ガンガンガガン、奴等が来るのに休み無し、行くぜ俺が取るぜ。この落差こそがこの作品の呼吸なので、視聴者としてはもう身構えるしかない。
歌の正体は終盤で明かされる。この回のエンディングは、まるごとロボットアニメの主題歌映像として作られている。曲名は「ガン・バルゼーのテーマ」、歌うのは遠藤正明。作詞は原作者のともつか治臣、作曲は遠藤正明本人で、編曲は三宅博文が担当している。冒頭で薫が口ずさんでいたものが、最後に本物として鳴るわけだ。
いちばん重い話数に、いちばんふざけたエンディングを乗せてきた。ちぐはぐなのに作品としては筋が通って見えるのが不思議で、冒頭の歌が伏線だったと気づいた瞬間の妙な満足感が忘れられない。
熱も威力もない、見た目だけの代物
薫はその勢いのまま、家からくすねた供え物を抱えてダラさんのもとへ行く。持って帰れと言いながらも話は聞いてやるのが、この祟り神の甘いところだ。そして切り出される用件が「ダラさんってさ、ビーム撃てる?」である。
ビームと言うても色々なものがあるようじゃな、と思案が始まったところで薫が撃つ。「レジェンド級の祟り神ちゃんでもビームは無理かな?」。この挑発に乗った顔をされて、「なんなんその顔」と突っ込みが返るまでが一連の流れだった。
落書き帳と筆箱が出てきて、そこから先は完全に技術解説になる。符術で出す場合はこう、複数の紋を同時に用い、特定の印で細く圧縮し、霊力の出力をこちらへ回す。傍らからは「よく知らんけど、プログラミングってこういうのやろか」という声まで飛ぶ。神様と子どもの設計会議である。
仕上がったビームには但し書きがつく。暴発防止のため紋は四秒以上重ねること、そこから四十度以上ずらすこと。そして熱も威力もない、見た目だけの代物であること。それでも自分の霊力を消費して撃つのだから、やりすぎると疲れたり気絶したりするから注意せよ。その注意が終わらないうちに、薫は気絶した。
叶えてはやる、危なくはしない、それでも格好はきちんとつく。この落としどころが実にダラさんらしい。紋がかすれて消える頃には飽きるじゃろ、という見立てまで含めて、この神様は子どもの扱いがうますぎる。
帰ってきたのは、椿ではなかった
「あやつの始末は首尾良くいって何よりじゃ」
場面は双子の生家へ移る。雨の中を帰ってきた影に、父母はためらいなく声をかけた。「おお、椿か」。姉御子の名は椿というらしい。かわいそうに、なんて有様、ずいぶんと苦労したようじゃが、と労わりの言葉が続く。
そのあとに置かれる一言が、この回でいちばん冷たい。「あやつの始末は首尾良くいって何よりじゃ」。妹を消すことは姉の独断ではなかった。父母は承知していて、そのうえで首尾を尋ねているのだ。
帰ってきたのが誰なのか、父母はようやく気づく。「お前なのか」。返ってきたのは、詫びの形をした刃だった。「やはりご承知の上でありましたか。申し訳ございません、帰ってきたのが私で」。
父母は言い訳をする。違う、椿が言うておったのじゃ、お前が。その先はもう続かない。妹御子は静かに願いを口にする。オロチは私が鎮めましょう、どれほどの時がかかろうとも、ただそのためにお力をいただきとうございます。「愛しい愛しい父様母様、姉様と同じく手を貸していただきとうございます」。
「手を貸す」という言い回しが、これほど怖い意味で使われるのを初めて見た。最後まで敬語が崩れないから、かえって逃げ場がない。前回の時点で相当に苦しかったが、今回はその上をいった。
雨の夜、十郎太が見たもの
同じ夜、落雷の音で目を覚ました十郎太は、高い所へ軽々と登って四方を見渡す。東の山にちらつく小さな光。それは妹御子の小屋や社がある付近だった。この雨なら火が広がることもなかろうが、あの人ならば一人で山に入って調べるかもしれん。そう思った彼は、東の山へ走り出す。
雨の中で彼が見たものは、腐り果てたオロチの胴と、見覚えのある男衆の亡骸、そして術のために刻まれた傷跡だらけの、五体を欠いた妹御子だった。そこからは怨念も無念も憤怒も瘴気も、まとめて噴き出している。
十郎太はそれらすべてを感じぬふりで、妹御子の腕を取ろうとする。だがその時、何かに押された。確かに押されたのだ。我に返ると亡骸は消えていて、凄まじい瘴気にあてられた彼は立ち上がるのがやっとだった。どうにか小屋まで戻り、彼はようやく彼女が死んだのだと理解して、気を失うように眠る。
押したのは誰なのか、という問いを残したまま場面が切れる。見るなと言われた側の優しさだったのだとしたら、これもまた縁の話だ。後に祠へ納められることになる腕を、この人が最初に取ろうとしていた。その事実だけで胸が詰まる。
連休の海と、聞いたことのない神様の名
学会と連休が重なって、親戚の新田家へ
現代パートの本題は旅行である。連休と学会が重なり、一家は開催地にあるハトコの新田家で世話になることになった。ダラさんは同行できない。「一応わしは土地神として祀られておるからな。そう簡単にこの土地を離れて遠出はできぬよ」。留守番の理由が理由なので、誰も反論できない。
ここで三十木谷家の父の名が出る。ウィリアムという。オーストラリア人の両親を持つ人物で、翌日には町へ仕事に出ていった。薫の金髪碧眼の理由が、さらりと補われた形だ。新田家の夫妻はシンジさん、シズエさんと呼ばれていた。
兄妹はハトコに車を出してもらって海へ向かう。そして薫は浜で見ていてもらい、日向は別行動という分かれ方をした。この何気ない一手が、後半の展開をそのまま決めてしまう。
神様に留守番をさせて家族旅行、という導入が妙におかしい。友達の分もお土産を買って帰ろう、という会話まで含めて、この家では祟り神が完全に生活の一部になっている。そこが好きで見ているところもある。
「ワタガメ様はおるよ!」と言い張る子
浜で日向が耳にしたのは、子どもたちの言い合いだった。「ワタガメ様はおるよ! 姫ばあちゃん言うてたし」、「そんな神様聞いたことねぇわ」、「昔はちゃんとみんなで祀ってたっつ!」。
反論の方も、いちいち理屈が通っている。おるなら何で今、放っといとんのに怒らへんのよ。祀られなくなった神は怒るはずだ、怒っていないなら居ないのだ。子どもの理屈だが、この回の芯を先に言い当ててしまっている。
周りの大人も容赦がない。「ボケ老人に洗脳されたんよ。あんなん気にせんで」。信じている側が一人だけ、という構図がここで固まった。
神様の実在をめぐる口論を、実際に神様と同居している日向が横で聞いているという状況が効いている。うちの地元にも山の神さんおるからな、と後で当たり前のように言えてしまう人が、この場にいるのだ。
「触らぬ神に祟りなし」。捨てられた神はどうなるのか
ワタとは海じゃ。名としては合点がいくな
日向は新田家の大人にも尋ねてみる。ワタガメ様、あんた知ってるかいね。返ってきたのは、昔聞いたことがあったような、という程度の反応だった。ただ、父親のアルバムに写真が残っていた。
祭りがあったのは戦前の話。祭場跡はあるにはあるが、写真に写っている祭壇も、大きな壺も、もうあらへん。戦争やら災害やらが続いとるうちに廃れてしもたんやろな、という説明で片づいてしまう。
ダラさんに聞くと、こちらも聞き覚えはないと言う。ただし名前については見立てを述べた。古くは海の神。ワタとは海じゃ、名としては合点がいくな。
神様当人が「聞いた覚えはない」と言うのが、じつは相当に不穏である。神々の側からも忘れられているということだからだ。写真の中にしか祭壇が残っていない、という見せ方も静かに効いていた。
信仰が歪んで変質したもの、捨てられて狂ったもの
続けてダラさんが釘を刺す。あまり関わらぬ方が良いかもしれん。長い年月で廃れ、祀られなくなり、消えた神は多い。そしてその中には、と話は本題に入る。
信仰が歪んで変質したものや、捨てられたことで狂ったものもあるという。触らぬ神に祟りなし、とはよく言ったものだ、と話は締められた。祟り神本人の口から出ると、この諺の重みがまるで違う。
この作品が一貫して扱っているのは、神と土地と人のあいだにある縁の、保守と管理である。祀るのをやめるという行為が、相手を消すのではなく変質させてしまうかもしれない。その言い方が怖い。捨てられた側は、どこにも行けないのだ。
姫ばあちゃんが「行くな」と言った、もう一つの祭場
縁を断ったと、みんなが言うた
翌日、日向は自転車を借りて祭場跡へ向かう。柵は意外と厳重だった。戦前の話やし安全基準も今とは違ったし、と自分に言い訳しながら進んでいくと、昨日の子どもが待ち構えている。友高という名だった。
姉ちゃんも神様信じとんのか、と聞かれ、うちの地元にも山の神さんおるからな、と日向が答える。それだけで友高はワタガメ様の話を教えてくれた。すべて姫ばあちゃんから聞いた話である。
立入禁止になるまでは、姫ばあちゃんがここを掃除していた。だがそれよりずっと昔、姫ばあちゃんが子どもの頃に、ここは焼かれた。よう知らんけど、縁を断ったとみんな言うてたそうなんや。
それでも姫ばあちゃんは言い続けた。海でワタガメ様に助けてもらったことがあると。せやのに簡単にご縁断ったり出来んやろ。友高は疑いもせずにそう言い、姫ばあちゃんが元気なうちに、昔のみんなが絶ったご縁をつなぎたい、と続ける。
信仰の話ではなく、恩義の話として語られているのがこの子の強さだ。神様がいるかどうかではなく、ばあちゃんが助けられたと言っている、だから断れない。理屈としてはこれ以上ないくらい真っ当だった。
岩壁から生まれたそれは、亀ではなかった
友高が明かすのは、もう一つの事実である。祭場は二つあるんや。そして彼が向かうのは、姫ばあちゃんが「汚れたから行くな」と言っていた方だった。俺が綺麗にして神様に謝るんや、姉ちゃんも手伝えよ。掃除道具はもう現場に運んである、という周到さである。
中に入った日向はすぐに止める。「なんかアカンでここは」。そんなに奥深い感じはしないのに、変に暗い。準備はいいと思うけど、ここはやっぱり嫌な感じがする、と。
その場に落ちてくるのは、いつかのやりとりだ。夜祭りで何人も変死体が出たのは事実なんや、たとえ事故や偶然でも祟りとしか思えん、せっかく偉い人に頼んで縁切りまでしたんや、ワタガメ様に関わるのはもうやめてくれや。ばあさん、と呼びかける声とともに置かれていく。
友高は、日向の躊躇を裏切りと受け取ってしまう。「日向の姉ちゃんも、ワタガメ様を嫌なもんや言うんや」、「姫ばあちゃんは嘘つきなんかやないんや。帰れよ」。そのやりとりの最中に、岩壁から何かが生まれる。
友高は叫ぶ。亀、ワタガメ様。日向はすぐに否定した。違う、と。こんなのがダラさんと同じ類であるもんかい。その断定にだけは、まったく迷いがなかった。
本物を知っている人間にしか出せない否定である。日向がこれまでに得たものが、こういう形で出てくるのが良かった。同時に、友高の信じ方を真っ向から折ってしまう瞬間でもあって、見ていて苦しい。
「幻影の水神様」まとめと考察
甕の中で朽ちた人間が、信心を掠め取った
決着はダラさんの遠隔介入でついた。お守りは、距離を無視して加護を得るための道具である。力の及ぶ土地であれば直接顕現もできようが、そうでない場合は信者の霊力を消費して権能を付与する。第五怪で渡された舌の肉片が、こういう形で効いてくるとは思わなかった。
そして正体が語られる。お前が出会うたアレは、元は人じゃ。土地の混乱期に、神域の甕へ隠れて供物を盗んでおるうちに、その中で朽ち果てた。信心を掠め取って力を得てしまった悪霊であり、土地神でもなんでもない。その他の禍事も、こやつの所業よ、と。
写真に写っていた大きな壺が、ここで意味を持つ。祭壇の脇にあったあの甕こそが、この悪霊の棺だった。名前にカメが入っていることまで含めて、ワタガメ様という呼び名そのものが乗っ取られていたことになる。サブタイトルの「幻影」は、まっすぐこの一点を指している。
では本物はどうなったのか。間が悪く、土地神が弱った時期に取って変わられたようなもの。もし土地神がすでに離れていたなら、たまった淀みが消えるまで何年もかかるじゃろう。救いのある言い方ではなかった。
夜祭りの変死体も、祟りと呼ばれた出来事も、全部この悪霊の仕業だった。つまり縁切りは、間違った相手に対して正しく行われたことになる。人々は本物との縁を切って、偽物の方を残してしまったのだ。この構図があまりにも苦い。
たった一人でも信じる者がおるならば
全部が明かされたあとも、友高が言うことは変わらなかった。あんな悪霊がおって、それをやっつけるよその神様がおるなら。なあ、お姉ちゃん。絶対、ワタガメ様もいるんや。
日向は、実はうちは旅の悪霊ハンターやったねん、と誤魔化す。嘘くせー、と返しつつ、でも多分この姉ちゃんは本当によその神様と関わりがある人なんやな、と友高はしっかり納得していた。
そして最後に、この回の答えが置かれる。超常の存在を目にした者の中には、それを信じて疑わぬようになる者もいるという。たった一人でも信じる者がおるならば、それは土地との強い縁となり、力となろうよ。術をあえてあの子供にも見せたことで、そうなっていればよいのだろうな。なあ、ワタガメ様とやら。
つまりダラさんは、会ったこともない同業者のために、わざと種明かしを見せたのである。捨てられた神はどうなるのか、という前半の問いに、彼女なりの答えを返した形だ。縁は切れる。だが、一人からでも張り直せる。
帰り道は医者へ寄ることになり、傷は三針縫うはめになった。置いていかれた薫は「うちも見たかった」と泣く。しかもお守りはあくまで救急依頼ができるだけで、今なめても何も起きない。それを知った薫が、無言でダラさんの舌の肉をしゃぶり続けて抗議するところで第六怪は終わる。
前半の重さと後半のふざけ方が同じ回に同居しているのは、もはや様式だろう。妹御子が父母から手を借りた話と、忘れられた神のために信者を一人だけ仕込んだ話が、同じ縁の話として並んでいるのが第六怪の設計だと思う。西の山でまだ眠っているものが、次にどう動くのか。そこも気になってきた。




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