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「人はなぜ舞うのだ」…1374年、南朝と北朝が争う不安定な時代。猿楽を舞う観世座の子として生まれた鬼夜叉は、舞の意味が分からないまま、やる気のない日々を過ごしていた。父・観阿弥の背中も、客の拍手も、彼の胸には届かない。そんな少年が納屋でひとりの白拍子の舞に出会い、生まれて初めて「よい」と感じる。第1話「人はなぜ舞うのか」を、本編の台詞をたどりながら振り返る。




鳥は飛ぶための形、馬は走るための形
人の形は、何のためにあるのか
開幕は身も蓋もない世相からだった。「盛者必衰。盛んなものもいつか衰え、滅びゆくもの」「無残ですな」「しかし我々が生きてゆくため、これも是非もなし」…そんな会話の脇で、ひとりが「こんな場所にも花は咲くもんだな」とつぶやく。京都の北朝と吉野の南朝、二つの朝廷が並び立ち内乱が絶えなかった時代。語りが告げるのは「人々は食に、暮らしに、娯楽に、命に飢えていた」という一行だ。
その時代に、舞台の上で心ここにあらずの少年がいる。「何が楽しいのだ」…彼の頭の中で回っているのは、こんな考えごとだった。「鳥の骨はとても軽い。だからこそ空を飛ぶことができる。馬の足はとても細い。ただ速く走るために。鳥は飛ぶための形、馬は走るための形」…そこから当然のように次が来る。「そうなると人間の形は何のため。舞うための形ではない、それは分かるのだ」。
そして結論。「舞は人にとって不自然なものではないか。舞は不自然。それなのに人は、人は舞う。分からんのだ」…第1話の芯がここで全部提示される。理屈としては正しい。正しいからこそ、答えが出ない。猿楽の家に生まれた子が、いちばん最初に「なぜ」でつまずいているという入り方が見事だった。
舞台を止めた息子と、「何がだ」としか言わない父
考えごとに沈んだ結果、鬼夜叉は本番の最中に動きを止めてしまう。「本番中だぞ」と声が飛び、舞台は途中で断ち切られた。後始末を終えたあと、彼は父に頭を下げる。「父上、申し訳ございませんでした」…返ってきたのは「何がだ」の三文字だった。
鬼夜叉は言葉を継ぐ。「(あの演目は)観世座の目玉です。評判が下がれば猿楽全体の命取りに。舞台を途中で止めて申し訳ございませんでした」…父の答えは「よし、分かっているならいい」。叱責ではないのに、まったく救いがない。息子の心配ではなく座の心配を確認しただけ、という受け答えだからだ。
対照的に、興行そのものは好調だった。客が「今日のも面白かったよ」と声をかけ、常連が「猿楽が田楽に取って代わる日も来るんじゃないか。あんたたちのおかげだ」と食べ物を差し入れていく。この時代の猿楽が、まだ固まりきっていない新興の芸だったことがさりげなく分かる場面でもある。座の空気は明るい。明るい分だけ、そこに乗れない少年が浮いて見えた。
届かない父の背中と、石也の答え
「父上は私を我が子とは思っていないのだ」
片付けが終わらない夜、鬼夜叉は「妖怪が木材を足しているとしか思えないのだ」とぼやく。彼の口癖である「〜のだ」は、視聴者の間でも早々に愛された話し方で、この重い題材にちょうどいい風穴を開けている。手伝いに残った石也には「お主はもう帰ってよい。もともとこれは私が父上に命じられた仕事なのだ」と気を遣うのだが、返ってきたのは「サボる気ですよね」という的確な指摘だった。
抜け出していることを見抜かれた鬼夜叉は、少し拗ねる。「街ではない。川の流れを見に行っているだけなのだ」「少しぐらい。幼い頃から読み書き稽古、読み書き稽古、それしかやってきてないのだぞ。自由な時間をくれても良いではないか」…そして石也が父の指示で自分を見張っていたと知って、言葉が沈む。「もういいのだ。みんな父上のことしか考えてない」。
続く独白が痛い。「父上は芸のことしか考えていない」「父上は私を我が子とは思っていないのだ。父上は我が子に芸を教えているのではない。この人間は良い芸を理解するものか否か、それを見極めようとしているだけなのだ」…胸には、稽古で投げつけられた「お前は舞う形ではない。だから良さが出ないのだ」という言葉も刺さったままだ。「形」という言葉が、ここでも鍵として置かれている。
「頭の舞を見ていると、どこまでも行ける気がする」
「父上が何を考えているのか私は理解できない」と漏らす鬼夜叉に、石也が返した言葉が第1話の白眉だった。最初はうまく言えない。「いや、何でしょう。ぼやーというか、もわんというか。なんとなくなんですけど」…そして見つける。「あっ、ほら、頭が舞うと世界が変わるじゃないですか」。
鬼夜叉が「世界が変わる」と繰り返すと、石也は「分かりづらいですね」と笑い、こう続けた。「私は足が悪いので、舞うことはおろか遠くに出かけることもなかなかできません。でもなんというか、頭の舞を見ているとどこまでも行ける気がするんですよ。そんな力が頭の舞にはあるのです」。
舞台に立てない人間が、舞台に立つ人間に「舞とは何か」を教える。しかも技術の話ではなく、見ている側の世界がどう動くかという話でだ。鬼夜叉の返事は「私には分からんのだ」…この率直さが憎めない。分かったふりをしないから、後の出会いがちゃんと衝撃になる。石也の言葉は、この時点では届かない伏線として置かれたわけだ。
デタラメと、飢えた世の中
鬼の子だから鬼夜叉、コガネとのデタラメ談義
石也の目を盗んで街へ出た鬼夜叉が向かう先には、コガネがいる。「またしょぼくれてんな」「コガネ殿もしょぼくれてるのだ」…互いの不機嫌を言い当て合うところから始まる関係が心地よい。友人と揉めたらしいコガネは「あんなやつ、友達でもなんでもねえよ。目の奥が死んでる。鬼だ、鬼」と吐き捨て、鬼夜叉が「うちの父上も鬼なのだ」と返す。そこでコガネの一言。「鬼の子だから鬼夜叉って名付けられたんだろうな、お前」。
そこから始まる大嘘の応酬が楽しい。「コガネ殿こそ、瓜から生まれた弟はお元気なのだ」「あれ、そんなこと言ったっけ」「言っていたのだ。その前は異国から来たと。その前は喋る兎を拾ったと」…コガネも負けていない。「鬼夜叉だって松の妖怪と一緒に暮らしてて、もうすぐ食べられちまうって言ってたじゃねえか」。
そして落ちがいい。「俺らデタラメしか話してねえな」「コガネ殿がそうだから、私もそうしてるだけなのだ」…すかさずコガネが「でも俺、鬼夜叉のデタラメ結構好きだぜ」と言うのである。座の中では誰も鬼夜叉個人を見ていないのに、ここでは嘘をつく彼をまるごと面白がってくれる相手がいる。ネットで「そこはかとなく漏れ出るぼっち感」と評された少年に、たった一人だけ用意された居場所だった。
「踊らねえとやってらんねえんだろ」
笑い声のすぐ横に、この時代の重さが置かれる。祭りが中止になったという話題だ。「今年は不作だったんだとよ」…コガネが語る世の中はこうだった。「でかい戦は減っても食いもんはねえし、人は平気で死んでいく。盗みでどうにか生きているやつもいれば、体を売って生きている女もいる。みんな世界に飽き飽きしてんだ。踊らねえとやってらんねえんだろ」。
答えを一つ差し出されたのに、鬼夜叉は受け取れない。「それは一体何の意味があるのだ。舞っても舞わなくても人は死ぬのだ。舞ったって世界は変わらぬではないか」…正論である。そして、正論だからこそどこにも行けない。帰り道の独白がそれを念押しする。「人の形は舞うためにできているわけではない。食べ物と寝る場所さえあれば、人は舞などなくても生きていける。それなのにみんななぜ? 舞を見る、舞を舞う。なぜなのだ?」。
この構成が丁寧だと思う。石也は「見る側の世界が変わる」と答え、コガネは「そうでもしないと生きていられない」と答えた。二つとも本当のことなのに、どちらも鬼夜叉の腑には落ちない。理屈で受け取ろうとする限り、この問いは解けないと示したうえで、最後の場面が来る。
迷った先の納屋、そこにいた白拍子
帰り道で迷った鬼夜叉は、通りすがりに道を教わって「感謝するのだ」と礼を言い、たどり着いた納屋で、ひとりの白拍子に出会う。決して整った歌声ではない。それでも鬼夜叉は目を離せなくなる。ここから台詞はほとんど消え、画と音だけで舞が映され続ける。
荒々しいのに芯がある。ネットの感想でも「初回は静かだったのに最後で一気に空気が変わった」「線が定まらない描き方は、舞に酔った鬼夜叉の目から見た舞なのでは」と、この一幕を語る言葉があふれた。公式のあらすじが言う通り、彼は生まれて初めて「よい」と感じる。理由は本人にも説明できない。説明できないまま、ただ心が動く。
そこへ語りがかぶさる。「彼が向かう先。そこには川よりも海よりも空よりも広い世界が広がっていることを、まだ知らない」…川の流れを見に行くのが唯一の息抜きだった少年に、川よりも広い、と告げる。第1話の締め方として、これ以上ないほどきれいだった。
「人はなぜ舞うのか」まとめと考察
答えではなく、感じてしまったことから始まる物語
第1話は、主人公に何ひとつ答えを与えないまま終わる。「人はなぜ舞うのか」に対して、石也の答えもコガネの答えも提示されたのに、鬼夜叉はどちらにも頷かない。そのうえで最後、理屈を通り越して心が動いてしまった。これが出発点になる。分かったから好きになったのではなく、好きになってしまってから分かろうとする。順番が逆であることが、この作品の誠実さだと思う。
印象的なのは、この回の鬼夜叉がまるで前向きでないことだ。舞の意味が分からず、稽古はさぼり、父には届かず、本番では手が止まる。ネットでも「何が『よい』かを理解して、みんなと同じ価値観になりたいだけで、賞賛そのものは求めていない少年」と評されていたが、まさにその通りの造形だった。褒められたいのではなく、みんなが見えているものが自分にだけ見えていないことが不安なのである。この不安は、才能や身分と関係なく誰にでも覚えがある。
細部も楽しい。ぶつかった子どもの手から亀吉という名の亀が顔を出す一幕や、団子屋に声をかけられて照れる座の面々、「俺もすっげえ美形に生まれたかった」という愚痴まで、暗くなりすぎないよう笑いが挟まれている。動物の芝居まわりは担当したスタッフ自身が手応えを語っており、画の熱量がそのまま画面に出ていた。重い題材を重いまま押し切らない設計が効いている。
そして最大の引きは、名も明かされない白拍子の存在だろう。父の舞では何も感じなかった少年が、なぜ彼女の舞にだけ動いたのか。次回、鬼夜叉はその答えを求めて彼女のもとへ通い始める。理屈で問い続けた少年が、身体で考え始める番だ。舞台に立てない石也の「どこまでも行ける気がする」という言葉が、いつ彼の中で腑に落ちるのかも合わせて追いかけたい。




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